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運命の彼方

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 「あの少女は…」
 和泉葛城山の展望台に立った幸樹は、紀泉高原の遥か彼方に連なる山々の向こうを眺めながら切なげに呟いた。
 幸樹の顔に、五月の風が紀泉高原で萌生えたばかりの芳しい草木や花の薫りを展望台へ運んでくる。
 「この風と薫りは、五年前の今日、五月三十一日、少女に逢ったときに吹いていた風と薫りと同じだ。だが、少女は居ない」
 幸樹は哀しげに呟き、眼下に広がる紀泉高原に目を転じた。高原は萌黄色から濃いみどり迄、さまざまな緑に覆われ、高原を二つに遮断するかのように、曲がりくねった一本の道路があり、ハイカーたちの歩く姿があった。
 「もし、あの少女が生きていたら、そして、幸せなら、必ず、この展望台と眼下に広がるカヤ草原にくると思って毎年きていたが、今日も来ていない。いや、あの日から」
 呟く幸樹の脳裏に五年前から、今日までのことが鮮明によみがえってきた。
 五年前の今日、大学病院の外科医、彼方幸樹二十九歳は、妻との離婚問題を解決するためには、まず、冷静な判断ができる環境が必要と考え、一度も登ったことがない和泉葛城山(標高八五八米)へ登ったのだ。
 和泉葛城山は、大阪府と和歌山県に広がる紀泉高原のほぼ中央に聳え、頂上には、大阪府と和歌山県を守護するかのように、葛城神社と竜王神社が背中合わせに鎮座する霊峰である。
 幸樹と妻の早苗は共に二十九歳で、結婚当初から共働きであった。しかし、早苗は、昨年の四月、若くして課長に昇進した。それが自信過剰となり、社長の椅子を狙うと、幸樹に言った。  
 無論、幸樹に異論などあるはずもなく、出来るかぎりの応援をしていた。
 だが、早苗は、妊娠したことを幸樹に伝えず、無断で堕ろしたのだ。そのことを他人から知らされ幸樹は早苗を詰問した。
 「なぜ、僕に無断で堕ろしたのだ。そして、何の為に!」
 すると早苗が平然と言った。
 「社長の椅子を狙う私には、子供は邪魔な存在でしかないの。だから、私は一生涯、子供を生んだり、育てません。もし、認めてくれないのなら離婚します」    
 妻を愛していた幸樹には反論できなかった。
 幸樹の夢と早苗の夢は正反対だった。幸樹は愛する早苗の夢に協力するか、それとも、自分の夢に生きるか決断できず、山の清らかな空気を吸えば、悩む心を男らしく、一刀両断に断ち切れるのではないかと考え、和泉葛城山へ登ったのだ。
 頂上に登った幸樹は、両神社を参拝した後、下方に設置された展望台の方へ降りながら美しい紀泉高原を眺めていた。               
 景色に捉われた幸樹は、足元の確認が疎かになり、凹地に足を取られて三メートルほど下へ転げ落ちた。
 驚いて辺りを見た。                         
 (しまった、コンタクトレンズを落とした)         
 幸樹は恥ずかしさに耐えながら、レンズを探したが、人の足で踏み荒れた草と斜面から探し出すのは非常に困難である。            
 だが、コンタクトレンズが無くては厳しい山道を下りるのは危険このうえもないため、どうしても探しださなければならないのだ。
 「何を探しているの?」
 上から、可愛い少女の声がした。
 見上げると、十一、二の可愛い少女が居た。
 「コンタクトレンズを落としたので探しているんだよ」
 「たいへんね、じゃあ、私が探してあげる」
 二人は、必死に探したが、なかなか見付けられない。
 幸樹は諦めて言った。
 「もう、探すのをよそう。でも、君の好意には感謝する。ありがとう」
 「諦めたらだめよ。だって、目が見えなかったら危険よ。私は、見つけるまで探すわ」 少女が真剣な眼差しで言った。
 「ありがとう」
 敏捷に探し回っていた少女が喜びの声をあげた。
 「あった!」
 「本当か!」
 幸樹も興奮した声で言った。
 「ええ、見つけたわ、これでしょう」
 少女がレンズを幸樹に見せた。
 「間違いなく僕のレンズです。ありがとう」
 幸樹が受け取ろうとすると。
 「待って、レンズを綺麗に拭かないと目に傷がつくわ」
 少女はハンカチを取り出すとレンズを丁寧に拭き。
 「綺麗になったわ。はい、どうぞ」    
 「何から何までありがとう」
 幸樹は、レンズを目に入れながら思った。
 (なんて優しい子なんだろう)
 「どう、よく見える」
 少女が心配そうな顔をして尋ねた。
 「よく見えるよ、紀泉高原の美しさが手に取るようにね。そして、君の可愛い顔がね。本当にありがとう」
 少女は顔を赤くしながら言った。
 「いえ、私は人より特別に、よく目が見えるからお節介したのよ。でも、探しだすことが出来て良かったわ、じゃあ、私、展望台へ行くわ」
 「僕も展望台へ行くんだ。一緒に行ってもいいかね」
 「うん、いいよ」
 少女は、坂道を木の葉が舞うように軽々と駈け下りていった。          
 幸樹は少女に負けてなるものかと掛け降りようとしたが、身体が思うように動かず、また転びそうになった。
 (子供には勝てない)
 競争を諦めた幸樹は、足元を注意しながら、展望台へ降りていった。
 幸樹が展望台の屋上にあがると、先着した少女は、展望台の窓から身体を乗り出し、手に持ったハンカチを振っていた。                          「お父さん、お母さん」                      
 少女は周囲の人たちの迷惑にならないほど小さな声で両親を呼んでいた。
 幸樹は少女の声が小さいので、少女の両親は望台の真下に居ると思い下を見たが、それらしい人物はいなかった。
 少女の目線を辿ると、五百メートルほど先に濃い緑のカヤ草原が広がり、その片隅に両親らしき人物が居た。                 
 「ここよ」
 少女が一生懸命、ハンカチを振り続けていると、気付いたのか、両親もハンカチを振っていた。
 「大好きよ」
 少女は、幸樹がやっと聞き取れるほどの小さい声で言った。 
 幸輝は、幸せそうな親子を見て思わず呟いた。
 「離婚だ」
 幸樹は、少女に聞かれたのではないかと、顔を赤くしながら少女を見た。しかし、少女は幸樹の存在など眼中にないらしく手を振っていた。
 だが、親子の幸せそうな姿を見て、離婚の決心がついた。   
 (早苗、君は仕事に生きてくれ)
 幸樹は離婚後のことをあれこれ考えていたが、思わず呟いた。        
 「今日は、僕の人生の再出発の日だ」                     
 展望台にいることを忘れていた幸樹は、また、顔を赤くして周りを見渡すと、少女がいないのだ。
 慌てた幸樹は、窓から下を見ると展望台の下に居た。
 幸樹は大声で言った。
 「コンタクトレンズ有難う!」
 幸樹の声に、少女は、にっこりと笑顔を見せ、羞かしげに坂道を駈け降りていった。
 少女の愛らしさに幸樹は。         
 (妻が子供が堕ろさなかったら、あんな可愛い女の子が生まれていたのに)
 と少女の姿を追いかける。
 少女は、緑も鮮やかなカヤ草原の隅にいる両親の方へ歩く。
作品名:運命の彼方 作家名:さいし