旅に行こうか
「先生は私のことをどう思っている?」
言った後で、葉子は素直に言えた自分を不思議に感じた。美しい桜のせいだろうかとも考えた。
「そんなこと、考えてこともない」と啓介は淡々と言った。あまりに淡々と言えたので、自分の中にいるもう一人の自分が勝手に喋っているように思えた。
時計の針が八時半を回った。葉子はそろそろ店に行く時間だった。
「店に行く時間だわ、先生も来るでしょ?」
「今日は行かない。ちょっと寄るところがあるから」
寄るところなどなかった。ただ一緒に行く気分になれなかったのだ。
「どうして?」
「どうでもいいだろ」と啓介は微笑んだ。その微笑の中に人を寄せ付けない何か厳しいものを葉子は鋭敏に感じ取った。葉子は沈黙した。葉子はついさっきまで甘い恋の夢を見ていた。その甘い夢がぽきんと折れたような気がしたが、簡単には諦めるようとも思わなかった。
ある日、店が始まる前のことである。
葉子が口紅を差す後ろ姿を見て、「恋をしたね」とあざみは言った。
葉子は思わすその手を休め、振り向いた。
「そんなことはない。それにどうしてそんなことが分かるの」と平静を装いながらも、ちょっときつめに反発した。
「怖い顔して、ますます怪しい。顔に書いてあるわ。私は恋していますって」
「そんなことはないって」
「いいわ。でも、決してだまされちゃいけないよ。男なんて、少しでも甘い顔をすると、女の弱みに付け込んで、まるでおっぱいでもしゃぶるように、骨の髄までしゃぶるのよ。まさか、ここに来る客に惚れたんじゃないだろうね。ここに来るのは、皆、体目当てのろくでなしよ」と言うあざみは、そのろくでもない男にひっかかった経験があった。それだけに言葉の重みがあった。いつもなら素直にうなずいただろうが、その日は少し苛立っていた。啓介が来なくなって三週間経っていたからである。そのことが啓介への思いを高めると同時に苛立たせもした。
「分かっている」と言って、また鏡に向かった。
鏡に映った顔……どこか自分でも変な気がする。そういえば、こんなことが数日前にあった。なじみの客の精神科医が来たときのことである。彼は葉子の顔をじろじろ見て、「角がとれたな」と言った。「そう?」と気のない返事をすると、「人間とは不思議なもので、心の状態が顔やからだにあらわれる。特に女は男より顕著に出る。弁天様のように丸くなった。良い人が出来たかな?」と言った。心の中を見透かされたようで恥ずかしくて顔をふせた……あざみと話しながら、そんなことを思い出したのである。
「葉子は夜の仕事には向いていないかもね」とあざみは言った。
「どうして」と葉子が聞くと、
「だって、自分を演じることが下手だもの。私たちはホステスという仮面をつけて演じている役者よ。一流の役者は演じていることすら忘れるものよ。でも、舞台が終わったら、その仮面を簡単に脱ぎ捨てなくちゃ。あなたにそれができる?」
啓介が次に来たのは、七月の終わりだった。
店も閉まろうとする十二時過ぎ頃である。ひどく酒臭かった。葉子が店に入ると寝ていた。葉子はおしぼりでその顔を拭いた。すると、啓介は「やあ、今晩は」とおどけた。
「今晩はじゃないわよ。この店は一時になると閉まるの」
「じゃ、帰るよ」と言って帰ろうとした。千鳥足で危なっかしいので、葉子は一緒に 帰ることにした。家まで送ろうとしたら、タクシーの中で寝てしまった。葉子は仕方なしに自分の部屋に泊めることにした。
部屋につくと、二つ布団を敷いた。啓介の服を脱がせ、布団に寝かせた。そして、自分も服を脱いで、パジャマの上だけを羽織って布団に入り明かりを消した。
それからどれほど時間が経ったことだろう、突然、啓介が「遠い昔、恋をしたことがある。君にそっくりだった」と呟いた。
葉子は「本当に?」と聞いた。どきどきしながら、その答えを待った。けれど、啓介はいびきをかいて寝てしまった。
次の日、葉子が目覚めたとき、もう啓介はいなかった。
数日後、啓介は何もなかったように店に訪れた。そして何もなかったように酒を飲み、店を出た。葉子が見送ることにした。
帰り際に、「今度、函館に行く。どうだ、一緒に行くか? 人生は旅だ。たまにはのんびりと旅するのもいい」と啓介は照れ臭そうに言った。
葉子がどう答えるか、平静を装ってみたものの啓介の胸は否応なしに高まっていった。彼女は沈黙したままだ。気になって、振り返った。月明かりに照らされた彼女の顔はまるで女神のように神々しく美しかった。
「旅行か、たまにはいいかも」と葉子は答えた。