欠片
叔父は俺の足を踏みつけた。体重を伸しかけて強く踏みつける。指先が踏みつけられ、痛みを発したが、何も言わなかった。
「育ててやった恩を忘れたか! ええ!? ノーマン! 士官学校に行かせてやったのは誰だ!? 子供の頃から育ててやったのは誰だ!?」
何も――。
何も言わなかった。恨み辛みを言ってやりたいのに、ひとつ言葉を出せば、感情を爆発させてしまいそうで、そうしたらこの場で取り乱してしまいそうで――。
此処が職場であるからこそ、何も言えなかった。
そうした俺の態度に業を煮やしたのだろう、叔父はぐいと胸元を掴んだ。襟が首に食い込み、締め上げてくる。苦しさに少し顔を歪めたところで、叔父は手を放した。
「20ターラーだ」
「……え……?」
いきなり金額を告げられて訳が解らなかった。叔父は叔母を見、叔母は肩を竦めて、給料を貰っているのだろう、と言った。
「月に20ターラー、私達に仕送りをするんだよ。そうすれば、あんたは好きにしていいさ。出来ないなら、家に戻りな」
仕送りを求めるために、此処まで来たということか。
狡猾な人達だとは解っていたが――、此処まで狡猾だとは思わなかった。
今の給与が38ターラーであり、20ターラーは給料の約半分に相当する。だが軍人の、特に上級士官の給与は一般よりも高く、また寮生活のため、生活費もそれほどかからないから、半分近くはいつも貯めておいた。今後の資金にしようと考えていた。
それを――。
叔父夫婦はそれすらも――。
「……お断りします」
「この恩知らず! 親でもない俺達が育ててやったのを忘れたか! 良いか、仕送りしなければ、また此処に来るぞ」
叔父夫婦はそれだけを言い残すと、立ち去って行った。
20ターラー。
毎月それだけ支払っていれば、叔父夫婦の呪縛から解かれるのだろうか。それとも要求はエスカレートしていくと見るべきか。
暖かい湯を浴びながら、茫と考えた。20ターラーは大きいが、不可能な額ではない。それを払って、自由を勝ち取った方が良いのか。
「……自由……か……」
ぽつりと呟いて、湯と共に流していく。
俺は、俺が望んでいるのはそんなに難しいことだろうか。ただ穏やかに生活がしたい、それだけなのに――。
このまま、叔父夫婦が俺から離れていくとは思わない。もしかしたら、これを契機に金銭面で頼ってくるかもしれない。
やはり――払うべきではないだろう。
それにしても何故、軍務省は俺の所属を教えたのだろう。軍人個人のデータは極秘として外部に漏らされることは無いと聞いていたが――。
ああ――。
解った。
身元引受人だ。
入省する時、身元引受人が必要で、叔父の名前を書いた。それほど重要な書類とも思わなかったから、字体を変えて叔父の名を出したが――。
おそらくそれが原因だ。俺の身元引受人となっているから、本部が所属先を教えてしまった。
俺のミスだ――。
身元引受人は、軍人となるときは必ず登録しなくてはならない。万一の事態が起きた時の連絡先であり、身元引受人に登録出来るのは親族と限られている。
親族が居ない場合は第三者でも認められるため、ジャンのお母さんに頼むことを考えたこともあった。だが、規則によると、兄弟でもないかぎり、二人以上の身元引受人となることは出来ないらしい。
そのため、仕方無く、叔父の名を書いた。署名が必要だったが、それは字体を変えて書いておいた。まさかそれが仇になるとは思わなかったが――。
俺は自分で自分の首を絞めてしまった――。
浴室から上がり、椅子に座って、軍の規約書を開いた。
身元引受人の条項にもうひとつ書いてあったことがある。もし親族がいない場合、特例として、上官に身元引受人となってもらうことが出来る――と。
「これか……」
そのページを開いて、もう一度きちんと眼を通していく。所属する省の上官は身元引受人となることが出来る。つまり、ロートリンゲン大将なら俺の身元引受人となれる。
だが――。
身元引受人となってもらえるだろうか。規約によると、双方の了承が必要で、おまけに身元引受人となっても補償金は出ない。つまり、万一の事態――死亡した時や肢体不自由となった時には、ロートリンゲン大将に迷惑だけがかかる――。
引き受けてもらえるだろうか。
考えても答えが見いだせなかった。そうするうちに夜が明け、仕事に行く時間となった。着替えを済ませ、いつも通り事務所へ行く。其処には同じ光景が広がっていた。席について、書類に眼を通していく。昨日はあの事件のせいで、ロートリンゲン大将の許に書類を提出することが出来なかった。今日はロートリンゲン大将は本部に居るから、中将に書類を提出することになる。
そのことに少し安堵した。昨日の一件があるから、顔を合わせづらかった。
この日は定刻に仕事を終え、寮に戻った。また叔父が来るのではないかと思うと不安でならなかった。
俺はどうしても彼等と縁を切りたい。
そのためには――。
そのためには、身元引受人を変更する必要がある。
だが――。
ロートリンゲン大将の許に依頼するのも気が引けた。全てを話さなくてはならなくなる。俺は今迄、ジャン以外に過去のことを話したことはない。俺の過去はあまりに凄惨で、容易く語ることは出来ない。下手をすれば、俺が嘘を話しているのではないかと思われることもある。子供の頃、虚言癖があると言われたように。
俺はまだ入省したばかりで、上官との信頼関係も築いていない。これがあと数年後の出来事だったのなら、ロートリンゲン大将に相談していただろう。だがまだ半年だった。俺がロートリンゲン大将のことをよく知らないのと同様で、ロートリンゲン大将も俺がどのような人間かはかりかねているだろう。
悩んだ末、俺は携帯電話を手にしていた。ジャンはどう考えるか聞いてみたかった。
「ザカ先輩? お久しぶりです」
電話に出たジャンは何も変わっていなかった。そのことに安堵し、不意に胸の内が緩むような気がした。俺は気付かないうちに随分、気を張っていたらしい。
ジャンの声を聞くと少し落ち着いた。そして無性に会って話をしたくなった。ジャンも四年生で遊ぶ時間も無いだろうが――、誘ってみた。
「構いませんよ。では明日、其方に行きます」
ジャンは帝都まで来てくれることになった。大丈夫ですか、と何度も俺のことを心配してくれた。
本当は一つ年上の俺は、ジャンに色々助言してやるべきなのだろう。演習のことや、入省後のこと――だが俺は、今は俺自身のことで精一杯だった。
翌日、ジャンが帝都にやって来た。カフェで落ち合い、他愛の無い話を交わしたあとで、叔父夫婦が職場にやって来たことを話すと、ジャンも酷く驚いた。ジャンは20ターラーも仕送りする必要は無いと言い切った。俺の判断は正しかったのだろう。
「それに……、そういうことなら上官に相談したほうが良いかと。身元引受人を頼んでみたら如何です? 駄目だったら駄目で、また方法を考えることとして……」
ジャンの後押しもあって、俺は決心した。
ロートリンゲン大将に打ち明けよう――。