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 最初に異変が起きたのは、人形を飾って一月ほど経った頃だっただろうか。家の中で妙な感じを受けるようになった。

『誰かに見られている』

 柚姫は独り暮らしなのに。
 ある時夕飯の準備をしていると、ふと視線を感じた。すぐ真後ろから吐息がかかるような、あの感じ。柚姫を見ていたのはあの人形だった。
 床の間の横の棚に飾っておいて、もちろんちゃんと壁に背を向けておいた。それが、躰の角度を変えてこっちを見ている。
 最初はペットのアリス(猫)の仕業かと思ったが、そんな悪戯をするような子ではない。

「気のせいなんかじゃないよ、それは一度きりじゃなかったんだから……」

 ベランダで洗濯物を干している時とか、台所に立っている時、ある日は夜中に目を覚ました時などに、不意に視線を感じる。
 そうすると、必ず人形が柚姫を見ている。何度向きを直しても、いつの間にか躰を動かして柚姫の方を見つめている。

「初めは本当に恐ろしくて、気味悪く思ってた。でも不思議だね。ある程度時が経つとこんな奇妙なことにも慣れてしまった」

 視線はだんだん気にならなくなって、そのうち彼に微笑み返す余裕まで生まれてきた。
 その頃になると、人形も棚の上から柚姫を見るだけでは満足できなくなったのか、とうとう徘徊を始めた。

「一人で棚から降りて家中を歩き回りはじめたんだ、私に付いて」

 実際に彼が歩くところを見たわけではないが、後ろから足音が聞こえる。
 こと、こと……小さな音が。
 それで振り返ると、柱の影や廊下の隅に彼がいる。そこからこっそり柚姫を見ている。夜など、寝返りを打つと彼が潜り込んでいた、なんてこともあったくらいだ。

「あの時はちょっと叫んじゃったよね。これはいよいよまずいことになったな……私は困ったよ」

 彼はどうやら……柚姫に懸想してしまったようなのだ。そろそろ何とかしないと大変なことになるんじゃ……そう思ったが、簡単に捨てていいようなものではない、特に人形というのは。人の形をした物には魂が宿るという。彼は明らかに『それ』を持っているのだ。さて困った、どうしよう。
 そんな中、

『人形を引き取りたい』

 悩んでいた柚姫の前に、そんな意外な申し出が現れた。お向かいの一軒家に住む老女で、一度人形のことをお話したことがあったのだが、その方がぜひ引き取りたいと言ってきたのだ。

「曰くつきのものを差し上げるのは躊躇われたんだけどね。気にしないと仰るし、それならということでお譲りしたの」

 翌日から家を空ける予定だったのでちょうどよかったのだ。
 一週間の海外出張を終えて、柚姫は老女を訪ねた。人形だけでなく、アリスの面倒をみて頂いていたから。
 そうしたら、老女が申し訳なさそうな顔で頭を下げた。

「お帰り柚姫ちゃん。ごめんなさいねえ、この前あなたに頂いたお人形さん、どこかへ行ってしまったの。ちゃんとあそこのとこに飾っておいたんだけどね……。いつの間にか。一昨日孫が遊びに来ていたから、気に入って持って行ってしまったのかしら。本当にごめんなさい」

 嫌な予感がした。柚姫はとりあえずお礼を言ってアリスを連れて家に帰った。急いで鍵をつっこんで引き戸を開けると――。

「そう。いたよ。彼が。たたきの所にちょこんと座ってね、私の方をね、こう、心なしか不満そうな目つきでじぃっと見上げて……」
「肌が粟立つっていうのは、ああいうのを言うのかな。本当に、怖かった」

 どうやって隣家を抜け出してきたのかとか、どうやって鍵のかかった我が家に入ったのかとか、そういうことが全てどうでもよくなるくらいに。
 また追い出されては堪らないと思ったのか、彼はそれまで以上に柚姫に付き纏うようになった。もう、柚姫が見ていようが構わずに動き回る。
 こと、こと……家の中を歩いているのだって何度も見た。仕事先にだって付いてくる。柚姫が気付くと、尚更視線を強くしてくる気がする。国内だろうが、海外だろうが、どこからか私を見つめている。