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あの夏の向こう側

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 僕はピタリと動きを止めた。彼女の言葉を咀嚼し、飲み込んで、それからゆっくりと頷いた。
「……うん」
 その弾みで涙が何滴か、フローリングに広がった。心持ち視界がクリアになって、小さな水たまりが僕の真下以外にもあることに気がついた。見上げると、僕の髪をくしゃくしゃにして笑いながら泣いている郁がいた。僕も同じような顔をしてみせてやると、向こうは口元を震わせた。
 僕は床から、僕にしか見えない液体を指で取って舐めてみた。
「しょっぱい」
「そりゃあ、ねえ」
「ってことは、郁は幽霊じゃないんだよね、僕にとっては」
 独り言のように呟いて、僕は自分を納得させた。彼女は幽霊以上なんてものじゃない。とうに人間以上の存在になっていた。
「一年に一度しか会えなかったけどさ、いつもここに来るのが楽しみだったよ」
 口の中に広がる小さな苦みも、目の前の少女がここにいる証だ。僕はいつだって、彼女の証明でありたいと思っていた。
「何をいまわの際みたいなこと言ってるの」
 彼女の上げた笑い声はやっぱり震えていた。
「ある意味そうじゃん。僕が死ぬわけじゃないけど」
「お別れっていう意味ならどっちが死のうと一緒よ」
「生まれ変わったら、また会えるじゃん」
 自分で発した言葉に後から気づいて、妙案だ、と自分を褒めた。生まれ変わりなんてあるわけない、と普段なら思うかもしれないが、彼女の存在そのものが超現実的なのだ。むしろ信じない方が不自然だろう。
「うん、それがいい。いつか、僕の子供になって生まれてきたらいいよ」
 僕は強気で口角を上げてみせた。
「あはは、それができたら最高だね。父親の赤ん坊時代を知る娘!」
「その時はあの世の土産話でもしてよ、郁」
 急に郁が笑うのを止めたものだから、最後の僕の声だけが妙に響いてしまった。郁はまた、くるりと回って窓の方を向いた。
 風鈴が鳴る。
「一個だけ、言いたいことがある」
 僕は彼女の顔が見えなくて少し不安になる。きっと彼女が言いたいのは、僕らがずっと遠回しに叫び続けた「本当」のことだろう。
「……でも、また会った時のお楽しみにしとく!」
 どうしてもその表情が見たくて、僕は彼女の肩を掴んで向き合わせた。
 郁は笑っていた。同じようにできない僕は、おかしいのだろうか。
「じゃあ、ね」
 涙だけじゃない、鼻水まで出てきた。僕が惨めな顔になればなるほど、郁は明るく笑った。やっぱり僕は彼女より遙かに年下だということなのだろう。
「じゃ……ずっと、ありがとう」
 なるべく普段のように喋ろうとして、ようやく言えた言葉たちだった。僕が言い終えた瞬間、僕の手が掴んでいたはずの肩は消え、焦点は空気中に浮いた。
 頭の内側に血が上るような感じがして、暴れ出したくなったけれど、体は微動だにしなかった。
 彼女と同じように、僕にも言いたいことがあった。本当は、僕が言わなきゃいけなかった。でも、言えなかった。僕は最後の最後で、彼女を自分の脳味噌の中だけの存在に封じ込めたのだ。数分前に僕が「本当」と思ったたった一つの思いが、記憶として海馬に埋め込まれていく感じがして、情けなくなった。
 もう、ここには僕しかいなかった。小さな塩の跡は一つだけだ。外からの生ぬるい風に頬を撫でられて窓の方を見てみると、小さな風鈴があった。日本人しか好まないという独特の高音で僕を涼しませようとしている。
 どうなっているかは分かって、その模様を確認した。不格好な白いうさぎが一匹、ただそれだけだった。
 急に世界中のもの全てが愛おしく思えてきた。見えないだけで全てのものに彼女の証が刻まれてあるように感じた。そうであって欲しいと、心のそこから願っている僕がいた。
 僕はただ、それ以上の思考を拒む頭と、それに同調してストライキを起こしている体をひとつずつ持つオブジェのようで。
僕の長く短い夏休みはここで終わった。甘い悪夢は、僕だけを現実に遺していった。
作品名:あの夏の向こう側 作家名:さと