机ひとつ分の空白
人気のなくなった教室の中、由紀の鼻が捉えているのは自分の机の上に置いた弁当の独特のにおいだけだった。
弁当のにおいというのは不思議なものだ。料理はひとつの食材で成り立つこともあるが、そうならないこともままある。それでも出来上がったその一品は食欲をそそるにおいを立ち上らせるのが常であるのに、それらが同じ箱にいくつも同居して蓋をかぶせられて数時間も経つと、それはまったくいいにおいではなくなってしまう。「弁当のにおい」というひとつの集合に変わってしまう。
このにおいを由紀はたまらなく嫌っていたが、今の由紀はその鼻につくにおいよりも気になっていることがあった。
由紀の机の左側。ふたつ隣の席で黙々と焼きそばパンを口に運ぶ少年の姿。
彼は由紀のほうをちらりとも見ようとしない。
由紀の耳の奥を、ほんの5分ほど前まで由紀の机のひとつ前の席で同じように昼食を摂っていたクラスメートの少女の残した言葉がこだまする。
「だってさあ。今、うちらがいなくなっちゃったら…ちょっとマズイじゃん?」
そのいたずらっぽい瞳と意味深な物言いが由紀にはたまらなく苛立たしかった。
(マズイことなんてひとつもないから、どうぞどうぞ。部活に行って下さいな)
そう言ってしまえたらどんなに良かったか。
ちらりと左側を盗み見る。
やはり彼はこちらを見ようともしない。焼きそばパンは残り3口ほどにまで減っていた。
(焼きそばパンしか、買ってないのかな…)
そういう由紀の弁当箱も、残り5分の1を切っている。中学2年生女子には2分でクリアできる程度のボリュームだ。そしてそれは由紀とて例外ではない。
しんと静まり返った教室の中、響くのは由紀の箸が弁当箱の隅をわずかにかすめる音と少年がパンの入っていたビニール袋を丸める不快な音色。
少年が食事を終える気配を悟ってもかける言葉のみつからない由紀は、視線を右斜め上へと滑らせる。
無機質な時計の針は13時7分を指していたが、ただそれだけ。由紀が右を向いている正当な理由は教室のどこにも転がっていなかった。
ビニール袋の音がやみ、代わってジーというジッパーを合わせる音が教室に響く。
聞こえないふりの由紀は己の弁当箱に残った白飯の最後の一口を、茶色い箸で乱暴に口へと運んだ。
早く飲み込まなきゃ。早く。
どうして?
部活の時間だから…。
うそうそ。あと23分もあるじゃん。
でも、ほら、急がなきゃ。
だからどうして?
だって…。
こうして逡巡している間にも、机ひとつ向こうの彼が私物をまとめているのがわかる。彼もおそらく13時半にグラウンド集合なのだろう。そしてきっと、練習が始まる前に仲間と好き勝手に身体をほぐすのだ。由紀がそうする予定であるように。
早く!早く!
イスの脚が床をこする不快な音が由紀の視線を弁当箱の左側に引き戻した。
「じゃ。ども」
会釈とともに彼がぼそぼそと挨拶をして席を立つ。
「あ、ども」
由紀は座ったまま、彼に向かって会釈をするとすぐに視線を正面の黒板に向けた。
5秒ほど、上履きが床をたたく音が教室を震わせたが、すぐにそれは教室の後ろで引き戸を開け閉てする音に変わり、足音は規則正しく廊下に吸い込まれていった。
ふーっと息をつき、由紀は弁当箱に蓋をした。中身は空だ。
そしてようやく視線を教室の後方、引き戸へと向ける。
(ごめん、ママ。今日は味、よくわかんなかった)
由紀は弁当のにおいが嫌いだ。市販の惣菜パンも含めて。給食のほうがずっといい。
それでも食事が終わる頃にはそんなにおいは少しも気にならなくなっていることもひっくるめて、由紀はとにかくテスト明けの土曜日に食べる弁当が大嫌いだった。
バンダナで弁当箱を手早く包むとスポーツバッグに乱暴に放り込む。
人気のない教室に、由紀がイスを蹴る粗野な音がこだまする。
まくりあげた赤いジャージの袖が落ちてこないよう再度ひっぱり、ひっつめ髪を留めているゴムを上に持ち上げる。陽光に透かすとほんのり茶色くなっている髪色はまだ教師には咎められていない。
スポーツバッグを左肩に、学生鞄を右の手に。
一歩机の左に出ても視界にそれは入ってこない。
顎を上げたときはじめて、彼の座っていた席が視界に入る。
2分前に彼が取ったラインより廊下側に机ひとつ分ずれたラインを針路に取り、由紀は黙って部活へと向かった。
誰もいなくなった教室からはもう、なんの音もしない。
<了>
弁当のにおいというのは不思議なものだ。料理はひとつの食材で成り立つこともあるが、そうならないこともままある。それでも出来上がったその一品は食欲をそそるにおいを立ち上らせるのが常であるのに、それらが同じ箱にいくつも同居して蓋をかぶせられて数時間も経つと、それはまったくいいにおいではなくなってしまう。「弁当のにおい」というひとつの集合に変わってしまう。
このにおいを由紀はたまらなく嫌っていたが、今の由紀はその鼻につくにおいよりも気になっていることがあった。
由紀の机の左側。ふたつ隣の席で黙々と焼きそばパンを口に運ぶ少年の姿。
彼は由紀のほうをちらりとも見ようとしない。
由紀の耳の奥を、ほんの5分ほど前まで由紀の机のひとつ前の席で同じように昼食を摂っていたクラスメートの少女の残した言葉がこだまする。
「だってさあ。今、うちらがいなくなっちゃったら…ちょっとマズイじゃん?」
そのいたずらっぽい瞳と意味深な物言いが由紀にはたまらなく苛立たしかった。
(マズイことなんてひとつもないから、どうぞどうぞ。部活に行って下さいな)
そう言ってしまえたらどんなに良かったか。
ちらりと左側を盗み見る。
やはり彼はこちらを見ようともしない。焼きそばパンは残り3口ほどにまで減っていた。
(焼きそばパンしか、買ってないのかな…)
そういう由紀の弁当箱も、残り5分の1を切っている。中学2年生女子には2分でクリアできる程度のボリュームだ。そしてそれは由紀とて例外ではない。
しんと静まり返った教室の中、響くのは由紀の箸が弁当箱の隅をわずかにかすめる音と少年がパンの入っていたビニール袋を丸める不快な音色。
少年が食事を終える気配を悟ってもかける言葉のみつからない由紀は、視線を右斜め上へと滑らせる。
無機質な時計の針は13時7分を指していたが、ただそれだけ。由紀が右を向いている正当な理由は教室のどこにも転がっていなかった。
ビニール袋の音がやみ、代わってジーというジッパーを合わせる音が教室に響く。
聞こえないふりの由紀は己の弁当箱に残った白飯の最後の一口を、茶色い箸で乱暴に口へと運んだ。
早く飲み込まなきゃ。早く。
どうして?
部活の時間だから…。
うそうそ。あと23分もあるじゃん。
でも、ほら、急がなきゃ。
だからどうして?
だって…。
こうして逡巡している間にも、机ひとつ向こうの彼が私物をまとめているのがわかる。彼もおそらく13時半にグラウンド集合なのだろう。そしてきっと、練習が始まる前に仲間と好き勝手に身体をほぐすのだ。由紀がそうする予定であるように。
早く!早く!
イスの脚が床をこする不快な音が由紀の視線を弁当箱の左側に引き戻した。
「じゃ。ども」
会釈とともに彼がぼそぼそと挨拶をして席を立つ。
「あ、ども」
由紀は座ったまま、彼に向かって会釈をするとすぐに視線を正面の黒板に向けた。
5秒ほど、上履きが床をたたく音が教室を震わせたが、すぐにそれは教室の後ろで引き戸を開け閉てする音に変わり、足音は規則正しく廊下に吸い込まれていった。
ふーっと息をつき、由紀は弁当箱に蓋をした。中身は空だ。
そしてようやく視線を教室の後方、引き戸へと向ける。
(ごめん、ママ。今日は味、よくわかんなかった)
由紀は弁当のにおいが嫌いだ。市販の惣菜パンも含めて。給食のほうがずっといい。
それでも食事が終わる頃にはそんなにおいは少しも気にならなくなっていることもひっくるめて、由紀はとにかくテスト明けの土曜日に食べる弁当が大嫌いだった。
バンダナで弁当箱を手早く包むとスポーツバッグに乱暴に放り込む。
人気のない教室に、由紀がイスを蹴る粗野な音がこだまする。
まくりあげた赤いジャージの袖が落ちてこないよう再度ひっぱり、ひっつめ髪を留めているゴムを上に持ち上げる。陽光に透かすとほんのり茶色くなっている髪色はまだ教師には咎められていない。
スポーツバッグを左肩に、学生鞄を右の手に。
一歩机の左に出ても視界にそれは入ってこない。
顎を上げたときはじめて、彼の座っていた席が視界に入る。
2分前に彼が取ったラインより廊下側に机ひとつ分ずれたラインを針路に取り、由紀は黙って部活へと向かった。
誰もいなくなった教室からはもう、なんの音もしない。
<了>