跡地3
俺は、鼻かんだティッシュをジーンズのポケットにねじ込み、足元から目線を上げる。その先には、住宅街の平坦な一本道が続いているはずだ。この平穏を絵にかいたような住宅街の道に、なにも異変がなければ。
……続いているには、続いていたけど「ありえないもの」がそこにはあった。火達磨だ。真っ赤な炎に包まれた人が、圧倒的な存在感でそこにいた。
暖かいのは「それ」から、ぽかぽかした空気がふわ~っと漂ってきているのだった。それもそうだ、生半可な炎じゃない。人間ひとりの体を覆う炎だ。ごうごうと勢いが強すぎて、人間が黒い炭のかたまりのように見える。それでも、「それ」がかろうじて人間だとわかったのは、はだしのままの足が見えていたからだった。炎は、だいたい脛から上全身を覆うように燃え盛っている。
はだしのまま雪道に立っているなんて、普通じゃない。だけど、火達磨なのはもっと普通じゃない。なんなんだ、全く訳がわからない。これは自殺か? それとも殺人事件なのか? どちらにしても、大事件には変わりない。俺はどうすればいいんだ。警察でも呼べばいいのか、それとも、救急車……。人間焦ると思考回路が混濁して意味のないことばかりつらつら考えてしまうというが、まさにその状態の俺。
さらに追い打ちをかけるように。
のそ、のそ、と炎を纏った人間は緩慢な動作でこちらに近付いてくる。火達磨のその状態、突如あらわれた状況、いつも通りの帰り道に起こった異変に俺は適応できないでいる。その場に立ち尽くしたままの俺に、火達磨はどんどん近付いてくる。辺りの空気はぽかぽか冬の屋外とは思えないほど温まってしまっている。ただ、背中に冷たい風が一筋当たった。
どんどん近付いてくる火達磨。近付くにつれて、火達磨が男だとわかった。髪は燃え尽きてしまったのか見られないが、炎に焼かれている皮膚はビニールのように溶けただれてはいない。人間は、体全体の三分の二だか一だかが火傷してしまったらもう駄目だと聞いたことがあるが、この火達磨は、体の四分の三は炎に覆われてしまっている。なぜ、何の支障もなく歩けるのだ? 火達磨の状態に反して、男の足取りは軽い。なんだ、俺冷静じゃないか。……うん、冷静なんなら、すみやかに逃げようね。相変わらず反抗期の俺の体は硬直して動いてくれない。
その時。炎に覆われ、よく見えなかった男の顔の……、ぎょろりとした目が、こちらを覗いたのだった。
「ひぃっ」
声が出た。けれど変わらず、棒立ちのまま尻餅すらつけずにいる。視線すらも動かせない。ぽかぽかした空気で、体はすっかり温まってしまったが、背筋だけは冷たいまま、汗が流れた。
白目ばかりで、およそ人間とは思えない恐ろしい目。いや、火達磨の状態ですたすた歩いている時点で、ただの人間とは思えないけどさ。ってかなんなんだよ。ホントに。
そんな様子の俺を火達磨はじぃと見つめたまま、とうとう、俺と彼は細い雪道ですれ違ってしまった。冷たい冬の風が吹き抜け、あたりには俺のジャケットの焦げたにおいが少しするだけで、何のことはないただの細い雪道に戻っていた。ハッとやっと気の付いた俺は、急いで後ろを振り返ったが、そこに誰の、何の姿もなかった。
あれはなんだったのだろう。いったい、何を見てしまったのだろう。バイト帰りで、疲れているからといってあんな幻、見るものか。恐ろしく燃え盛る炎を。
謎は深まるばかりだが、考えていても仕方がない。家に帰ろう。冷え切った一人暮らしの部屋に。歩き出した俺だが、一歩踏み出して、違和感を覚える。
体は、すれ違った「炎」が汗が噴き出るほど熱かったことを覚えている。しかし、足元の雪は昨日積もった硬く重い雪が強引に踏み固められたそれであった。少しも、溶けていないのである。あれはただの白昼夢だったのか?
焦げ跡のついたジャケットと、俺の脳内に鮮明に焼付いた火達磨のぎょろ目だけが、残った。