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ただ書く人
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左頬ノック

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 それから陽子は、自分の質問に弘樹がどんな言葉を返してくるのかを考えた。ベランダで弘樹のトロンボーンの音を聴きながら、その後の会話をシミュレーションし、互いに笑顔で言葉を交わす自分と弘樹の姿を空想した。陽子の心臓はいつかと違ってトロンボーンの音に調和して、その音が響くたびに収縮するようだった。

 そして実践の日。クリスマスやバレンタインデーでもない、学校行事もない何でもない日だが、陽子にとっては大きなイベントが控えていた。やはり今日でなくてもいいかもしれない、とすぐに弱気になろうとする自分を何度も奮い立たせて、昼食の時間にいよいよ覚悟を決めた。
 弁当を食べてからトイレの鏡で自分を見つめる。テニス部を引退してから伸ばし始めた髪が耳の後ろで緩くはねている。それに気づいて髪を後ろで束ねて結んでみたが、やはり似合わない、とすぐに解いて指で梳かす。鏡の中の自分に笑ってみせる。前日からずっと頭の中で繰り返していた言葉をまた繰り返す。胸の中を掴まれたような感覚に少し身を固くする。落ち着いて。ただ話しかけるだけ。愛の告白をするわけではない。
 教室に戻った陽子は左頬を軽く叩くと、友人たちと談笑している弘樹に向かっていった。
 陽子は弘樹まであと三歩という距離に迫ったところで立ち止まると、また左手で左頬を軽く叩いた。弘樹と友人たちは近づいてきた陽子に気づいて、座ったまま彼女を見上げた。急に世界が静まり返ったようで、陽子には弘樹たちも、後方に集まっている自分の友人たちも、その他すべてのクラスメイトも自分を見ているように感じられた。
 陽子がずっと繰り返していた会話のシミュレーションを頭の中で再び行うと、前日に聴いた弘樹のトロンボーンの音もいっしょに思い起こされ、それは一度長く音を響かせたあと、急に軽妙なジャズトランペットのようなメロディを奏で始めた。それに合わせて躍り出そうとリズムを早めた心臓を制するために、陽子は再び左頬を叩いた。まだクラス中が自分に注目し、自分の言葉を待っているようだったが、もう引き返すこともできない。陽子は覚悟を決めて口を開いた。
「島くん、どこの高校を受けるの」
これだけの言葉だった。以前の陽子だったら簡単に言うことができたはずの言葉だが、今の陽子にとっては大きな覚悟と勇気が必要なことだった。
「え。ああ、N大付属にすると思うけど……」陽子は何でもない自然な質問のつもりだったが、弘樹にとっては唐突な言葉で彼は少し戸惑いながら答えた。
ここに陽子にとって予想外のことがあった。弘樹と陽子の学力は同じ程度で、陽子が前日から繰り返していたシミュレーションでは、弘樹はS高校を受けるはずだった。そして陽子は「わたしもS高だよ。同じ高校に行けたらいいね」と少しだけ好意を見せるつもりだったのだ。この場合はどうやって言葉を続ければいいのだろうか。たったこれだけのことで陽子は混乱してしまっていた。陽子は弘樹に相槌も打てず、曖昧な笑顔を浮かべることしかできなかった。
「そっちはどこにするの」不意に弘樹が陽子に尋ねた。
自分に質問をされることも予想外の事態だったが、混乱していた陽子にとっては幸運なことだった。
「S高のつもりだけど、N大付属も受けるかもしれない、かな」
嘘ではなかった。陽子の母は大学付属高校の方が後々楽だから、とN大付属を勧めていたし、陽子もそれを考慮していた。しかし、こどもながら私立の方が金がかかるはずだという遠慮もあり、S高校は自転車で十五分程度の距離にあるということもあり、陽子自身ではほぼS高校を受けることに決めていた。
「そうなんだ。おれもS高かもしれないし、同じだったらよろしくな」と陽子が考えていたようなセリフを弘樹が言った。
それを聞いて陽子は、自分が考えていたのと同じように弘樹が好意を見せようとして言ってくれた言葉かもしれない、と秘かに喜んだ。そして、次は弟の話だったか国語を教えてもらうのだったか、とまた少し混乱した頭で考えを巡らせながら、陽子は左頬を軽く叩いた。
 その陽子を見て、弘樹が「またやった」と笑って自分の友人たちと顔を見合わせた。何のことだかわからずに陽子が首をかしげると、「それ。癖なの」と弘樹は自分の左頬を叩いて微笑んだ。陽子は、わかってはいたがあまり意識していなかった自分の癖を恥ずかしく思い、また自分を弘樹が見ていてくれたことをうれしく思い、「うん」と答えてから少しうつむいてはにかんだ。

 扉ができた。陽子が小さく開けた壁の穴を大きく広げたのは弘樹だった。扉はどちらが作ったのだろうか、いつの間にかできあがっていた。まだ扉を開けることには少し勇気が必要だけど、控えめにノックをすれば弘樹はすぐに応えてくれた。弘樹との些細な会話も陽子にはうれしくて、その度に友人たちに報告しては冷やかされた。
 秋が深まると、陽子が夕方のベランダで感じる風は少し冷たいものに変わっていた。弘樹のトロンボーンの音は相変わらずで、陽子の空想も相変わらずだったが、現実は空想とは変わってしまった。
 待っている、と伝えたのは陽子。中学校生活最後の演奏会を間近に控えた弘樹は、今日も非常階段で練習している。その弘樹のトロンボーンの音に合わせて体を揺らしながら、陽子はこれからの会話を頭の中でシミュレーションする。陽子が思ったよりも早く練習を終えた弘樹が早足に近づいてくる。これから陽子がどんな話をするのかわかっているのだろう。弘樹は少し照れたような微笑みを陽子に向ける。陽子の心臓のリズムに合わせるかのように、まだ自主練習を続けている吹奏楽部員のトランペットが、テンポを上げた古いアニメの主題歌のメロディを奏でる。校舎が薄い朱色に染まり、陽子の頬もそれにならったかのように赤くなる。そして陽子は左手で左頬を軽く叩いて、この日は特に重い扉に手をかけた。
作品名:左頬ノック 作家名:ただ書く人