ガンマンの生
男というものは時に自分でも信じられないような英雄的行動を見せることがある。老人にとっては今がその時だった。女が助けを求めているのを見過ごすわけにはいかない。捨てたつもりのこの命。どこの誰かは知らないが、君がために散るなら本望。いざゆかんや老兵の、最期の働きとくと見よ。恐れよ何するものぞ。
老人は覚悟を決めて足を進め、女と追跡者の間に割って入った。
「助けてください」女は老人の後ろに回って座り込み、息も絶え絶えに言った。
老人は背後の女をちらりと見た。女はまだ二十歳前後に見えた。シャツのボタンが外れており、手で押さえてはいるが豊かな乳房が半分ほどあらわになっていた。
「よくやった爺さん。先にやらせてやろうか」こちらもすっかり息の上がった追跡者が、老人に歩み寄りながら下卑た笑みを作って言った。
追跡者は老人を「爺さん」と呼んだが、老人とさほど年齢は変わらないように見えた。追跡者の言葉を聞いて女が再び立ち上がった気配を、老人は背後から感じた。
老人はすぐに状況を察して、女を安心させるためにも追跡者に大声を上げた。「何をしている。女を襲うようなことをして恥ずかしいと思わんのか」
「ひとり占めする気か」
「あんたといっしょにするな」
こうは言ったが、ここに来る前は自分もいい思いをしてやろうと考えていたものを、と老人は内心で自嘲した。
そして老人は拳銃を抜いて、それを追跡者に向けて構えた。追跡者はそれを見て先ほどまで浮かべていた笑みを消すと、腰から刀身が湾曲したナイフを取り出した。両者の距離は約三メートル。追跡者が老人に飛びかかろうと一歩踏み出したのと同時に、老人はリボルバーの拳銃の引き金を引いた。
老人が拳銃を撃ったのは初めてのことだった。彼のような素人が狙い通りに標的を撃つことなどできるはずがない。入口付近で老人を襲った軍人もそうだった。老人の狙いも当然外れた。追跡者の足を狙ったはずの弾丸は、その首を正面から撃ち抜いていた。首から血を吹き出し、追跡者は体を投げ出すように前方に倒れた。
女は老人の見立てより少し年上で、二十四歳だった。よくある惚れた腫れたの問題でやけになってここに来たのだが、やはり恐ろしくなって出口を探していたところを先ほどの追跡者に襲われたという。老人は自分も出口を探していることを伝え、互いにその方が心強いだろう、と女と行動することにした。
男は星の数ほどいる。あんたを選ばない男がバカだ。あんたほどの女ならもっといい男がたくさん現れるはずだ。まだ生きていればいいことはあるさ。老人は月並みな言葉で女を励ました。
確かにその女は美しく、痩せ細った者が多い若い女にしてはふくよかで魅力的な肢体をしていた。老人に渡されたベストをシャツの上から着込んでボタンをしっかり止めてはいるが、胸元からは豊満なふくらみが覗いていた。髪は後頭部で束ねた、いわゆるポニーテールにしており、耳元からうなじにかけて美しく白い肌が露出していた。
老人はほんの十数分前まで抱いていた欲望を思い出し、ここから外に出られたらこの女とうまくやれるかもしれない、などと考え同時にそれを恥じた。
「出口はご存知なんですか」不意に女が老人の方を向いて尋ねた。
彼女のうなじに目をやっていた老人は慌てて前を向いて、出口はわからないが建物の端まで歩いてみるしかない、と自分が考えていることを答えた。
また強い風が吹いて、老人は頭のテンガロンハットに手をやり、女は歩みを止めて目を閉じた。目に砂埃でも入ったのか、女は少しうつむいて瞬きを数回繰り返してから顔を上げた。そして彼女は突如大きな声を上げた。「あれ、壁じゃないですか」
女が指している正面を見たが、老人には何のことだかわからない。
「あの山です。壁に書かれた絵ですよ」
女の言う山、遠くにそびえる裸の山は、そして老人が果てのない荒野だと思っていたものは、大部分が絵だったのだ。老人には未だそれが本物の荒野の風景にしか見えていなかったが、若い女が言うのだから間違いない、と考えた。
「それなら壁沿いに歩けば出口もあるだろう」
老人はようやく外に出られそうなことを実感して安堵し、深く息を吐いた。
「ありがとうございます。ここから外に出たら何かご馳走させてください」女も安心したようで笑顔を作って言った。
「あんたにご馳走されるような年じゃないですよ」と言いながらも老人は自らの欲望を再び思い起こしていた。
そうだ。生きていればいいことはあるものだ。何かの役に立つことがあるかもしれない。長生きも悪くはないだろう。もう二度とここには来るまい。老人はそう決心し、足取りも軽く壁に向かって歩き続けた。
運が良ければこういうこともある――老人はまたも友人の言葉を思い起こしていた。
出口はすぐに見つかった。ふたりが壁に到着する前に高いステンレスの柵に囲まれた場所が見えたのだ。そこにはその柵と同じ材質の扉が付けられていた。ふたりがそこに近づくと、扉に「非常口」「避難路」と書かれた板が吊り下がっているのが見えた。
ようやく出られる、と老人は扉に手をかけたが、それと同時に短い銃声が鳴って彼の体は扉に倒れかかるように崩れ落ちた。
「あんたらみたいなのは毎日いるんだ。この自殺センターに来ておきながら逃げ帰ろうとするやつは」と言いながら老人と女の左側から人影が歩み寄ってきた。
その姿を見て女は息を詰まらせ、それから倒れている老人を見下ろして悲鳴を上げた。
老人は腹部を撃たれており、意識はあるものの、ただ流れる血を見ることしかできなかった。どうしてか痛みは少なく、もう間もなく自分は死ぬのだろう、と感じていた。せめて彼女だけは逃がしてやらなければならない、と老人は思ったが、体を動かすことができなかった。
「死ぬために来たんだからいいだろう。おれは死ぬためでも殺し合いをするためでもない。こうやって逃げようとするやつを殺すために来ているけどな」
老人を撃った男、ガンマンでも軍人でも侍でもない、黒い上着にジーンズを履いた壮年の男は、オートマチックの拳銃を女に向けたままゆっくりと近づいてきていた。
老人はどうすることもできずに見つめていたが、女は意外な行動に出た。彼女は悲鳴を上げながらも腰に差していた拳銃を取り出すと、躊躇せずにジーンズの男に向かって発砲したのだった。二発。三発。でたらめに撃ったその弾丸がジーンズの男に命中することはなかったが、ひるませることはできた。女はその隙に老人に走り寄って彼の腕を取った。助けようとしてくれているのか。老人は、自分に構わず早く逃げてくれ、と言いたかったが、もう声を出すこともできなかった。また、その必要もなかった。
女は老人の腕を取るとそのまま彼の体を引き倒して、さらに足で蹴るようにしてその体をどけた。そして、老人が背にしていた柵の扉を開いた。その間にジーンズの男が女に向けて発砲したが、慌てていたためか、それは命中しなかった。そして、女は柵の向こうに入り、その奥の壁に設置されている扉に駆け込んでいった。
「運が良かったな」女の後ろ姿を見送ってジーンズの男は小さく舌を鳴らた。
それから彼は老人の真横にしゃがみこんでその頭部に拳銃を当てて引き金を引いた。