あなぐら
あなぐら
彼の１LDKの小さな部屋は当然だとでもいうかのように、今日も見事に荒れていた。今年で二十五歳になるとは思えないほどの散らかりっぷりに、見た瞬間、唖然としてしまう。食べ終わったチョコレートの包みや、飲み終わったペットボトルがそのまま床に置かれている。この部屋にテーブルはない。そのためにテレビのリモコンも、お客様から頂いたんであろう名刺も、吸い殻がたくさん詰まった灰皿も、なにもかも床に散らばっているのだ。
夜九時、部屋に着くなり私は散らかったゴミを拾い、散らばった物たちをテレビ台の上に置き、カーペットの上を粘着ローラーできれいにする。ときたま彼の同居人である生後半月の子猫、ステラと戯れながら（ステラは容赦なく猫のトイレ砂をまき散らし、カーペットをずらしながら部屋中を駆け回っていき、それを片づけるのがもっぱら私の仕事ではあるけれど）、日付をまたいだ先に帰宅するであろう「ご主人様」を待つのだ。こんなことはもう一ヶ月以上続いている。
この部屋の主である手塚さんと出会ったのは、私が日雇いアルバイトで務めた居酒屋だった。店先での物腰穏やか且つ丁寧な振る舞いと、閉店後の良く言えば自由奔放、悪く言えば自己中心的な態度のギャップに惹かれて、私からデートに誘った。最初のデートは健全なものだったが、二度目のデートには一人暮らしで猫を飼っているという彼の部屋に出入りし、その次に家に行ったときにはキスをされた。初めて部屋を訪れた際に、ずうずうしくも私はパジャマなどの寝泊りセットをそのまま置いてきたため、そのあともずるずると部屋に通った。
当初は私も恋愛に似た感情を持っていたので、手塚さんのスタンスには困惑した。このまま関わっていても、恋人付き合いになれないことは重々に承知していたからだ。というのも、手塚さんは仕事の忙しさを理由にして彼女を作らない。週六日も勤め先に献上している彼は、唯一の休日である日曜日まで彼女に取られたくないのだ。だから手塚さんは、欲求不満や彼女のいない寂しさを埋めてくれる役割を果たす「女」が必要だった。そこにぽんと現れたのが私だった。つまり、ある程度手塚さんの好みに適った女でさえあれば、べつに私でなくてもいいのだ。一刻も早く抜け出すべき環境なのだということは頭では理解している。けれど、手塚さん同様、私にも異性をもってでしか埋められない寂しさがあり、しかも「都合のいい女」とはいえ、自分が求められているという女特有の喜びがあり、不毛であると分かりながらも自ら手放すことはできないでいた。
今夜は珍しく、彼に呼ばれてやってきた。前日メールをしているときに「明日来て、癒して」と甘えられ、すぐに私は一言「いいよ」と返信した。どうやら仕事が忙しすぎて数日家に帰れていないらしい。店に連泊しているということは、子猫のステラはその間、放置されている可能性がある。私がこの家に行かねば、と使命感のようなものを得るのは、自己管理のできていない彼と、そのペットであるステラが心配であるからだった。これを母性本能というのだろうか、私がなんとかしてあげなくちゃ、という思いに駆られてしまう。
一通りの掃除が終わると、私は風呂場を借りてシャワーを浴びた。最後に顔を洗い終え、タオルで体を包もうとしたとき、玄関のドアが開く音が耳に入った。手塚さんが帰ってきた。甘ったるい声で子猫の名前を呼ぶ。手塚さんはこんなとき、まるで幼い子供を持った父親のような顔をして、赤ちゃん言葉を話しながらステラに構うのだ。子猫を抱きかかえ、唇をアヒル口のようにとがらせて顔を近づける。普段忙しくて構ってやれない分、帰宅した瞬間の愛情表現にはいつもたっぷり時間をかけていた。
「ステラ洗ってくれたー？」
手塚さんがお風呂場にいる私に声をかけてきた。さも当然のように言われ、かちんと頭に来て、強い口調で言葉を返す。
「洗ってないよ！」
「なんだ」
喫煙者の手塚さんのもとで暮らすステラは、がん予防のためにもふつうの猫よりも多く体を洗ってやる必要があった。私が本から仕入れた知識を彼に教えてあげると、彼はいつもの調子で「じゃあ洗って」と言ってきたのだ。猫は愛情だけじゃ飼えないんだ、ということをいつになったら学習してくれるのか。そんなような不安要素がほかにもたくさん、常にあるから、私はこの家から離れることができずにいるのだ。
お風呂から上がると手塚さんは、漫画雑誌を数冊積み上げた「仮椅子」の上に腰をおろし、テレビを見ながらたばこを吸っていた。仕事帰りにコンビニで買ってきたのであろう、猫缶と彼用のおにぎりはまだ袋のなかに入ったままだ。そのなかには私がいつも朝食に取るリンゴも入っている。私はリンゴを取り出し冷蔵庫にしまい、そして猫缶をステラの餌蜂のなかへ移してやった。
「ステラ、ずっとおなかすかせてたんだから、たばこより先にご飯あげてよね」
「はいはい」
「もう……」
たまに本気で椅子の上から蹴落としたくなるのだけれど、こんな手塚さんの態度にはもう慣れっこだった。溜息一つをこぼしたって、彼には聞こえはしない。ものすごく猫背になりながらも、テレビに集中してしまっている。私はそんな彼の腰に後ろから腕をまわし、ほどよく筋肉がついて、がっちりとしている背中へぴったりと身を寄せた。頬を背骨につけ、深い深呼吸をする。こんなにもだらしのない男でも、そばに置いてくれ、そしてこんな風な私の甘えを許容してくれることは純粋にありがたかった。
濡れた髪の毛のしずくは彼の来ているシャツへとじわじわ染み込んでいく。そして同時に私自身も彼のぬくもりのなかへ溶け込んでいくかのようだった。彼のぬくもりは私をこんなにも安心させるのだ。
「髪の毛冷たいよ」
「まだ乾かしてないんだもん」
「乾かしなよ」
「はぁーい」
リビングに置きっぱなしにされているドライヤーで頭を乾かしているあいだ、手塚さんは先にベッドに横になり、携帯を弄っていた。意外にもメールがまめで、しょっちゅう誰かしらとメールをしている。（もしくはネットゲームをしている。）手塚さんには私以外にも、私のような女の子がいるので、もしかしたらその子と連絡を取っているのかもしれなかった。正直妬ける、でも付き合っているわけではないので、それを露わにすることができない。ただ手塚さんから聞いた「お掃除お姉さん」のイメージを膨らませては、心のなかで葛藤するしかないのだ。手塚さんの話によると、その子は好みの顔ではないらしく、一切手を出していないらしい。一緒に寝ていたってセックスしたいとは思わないと言っていた。それを考えると、私は求められているあたり、お掃除お姉さんよりも格上に位置づいているのかもしれない。でも手塚さんから見れば、彼女も私も、単なる都合のいい女でしかないのだろう。