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君にこの声がとどくように

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「迎えに来たよ」
 ナインは右腕を差し伸べた。
 所々が黒ずんだその腕は、不自然な角度に伸ばされている。
「あなた……クオン?」
 歌が止まる。
 虚空を泳いでいたキャスの視線が、確かな力と輝きをもってナインを捉える。
「違うよ、キャス」
 キャスの表情が歓喜のそれへと変わる前に、ナインは否定する。
「僕はナイン」
 ナインは断言する。一切の迷いもなく、何よりも力強く。
「クオンは、もういないんだ」
「うそ……信じない」
 キャスは震えるように小さく首を横に振る。
「聞くんだ、キャス。クオンはもういない。僕らが知ってる、優しくて強かったあのクオンはもういないんだ」
「いやっ!! 聞きたくないっ!!」
「キャスだけのせいじゃない! だから僕らは独りで抱え込むのを止めにしよう! キャスが迷ったときには僕が呼ぶ、僕が迷ったときはキャスが僕を呼んで」
 ナインはキャスの身体を抱きしめる。
「離して!」
 動きを止めていた光球が一斉にナインを襲った。
 しかしナインは微動だにせず、それらすべてを受け入れる。
「離さない、離れない!」
 ナインは残る生命力のすべてを振り絞って叫ぶ。
「僕はここにいる! 誰よりも近いこの場所にいるよ!」


 ―― 君にこの声がとどくように


 ナインは、自分が傷つくことを恐れて、現実と向き合うことを避けていた。キャスのためだと言い聞かせながら、結局は自分が傷つくことを恐れていた。
 それに気付いたナインは、心に纏った鎧を脱ぎ捨てた。他の誰でもない自分自身として、現実と向き合った。

 誰のせいでもない。
 誰のためでもない。
 自分がそうしたいから、そうするのだ。
 その行為は、誰に許される必要があるというのか。

 ナインの旅の目的地は、ここ以外のどこでもない。
 それは、キャスと並んで歩いて行ける場所。

 キャスの隣、だ。


 ナインの瞳は、キャスの瞳を捉えて離さなかった。
「な……いん?」
 ついに、キャスはナインの名を呼ぶ。
「クオンは、僕たち守って死んでしまったんだよ」
「……うん」
 キャスはダークブルーの瞳からぼろぼろと大粒の涙を落とし、ただひたすらに泣いた。
 一年に渡ったナインの旅が終わりを迎えたのは、この瞬間だ。

 キャスの目前で、ナインの巨体が崩れ落ちるように倒れる。
 ナインの身体は黒く染まっていないところを探す方が困難なほどになっていた。
「ごめんね、ナイン。あたしのために、こんなになってがんばってくれたんだね」
 すでに、ナインに意識は残っていない。
 キャスは横たわるナインの頭を膝に抱いた。その身体の冷たさに、胸が締め付けられる。
 小屋には、ナインの規則正しくも弱々しい呼吸音だけが存在していた。

 キャスは心を取り戻していた。
 ルドラの黒剣を破壊した際に、奪われていた精神は肉体に戻った。
 だが、クオンを殺してしまったと嘆く彼女は、殻に閉じ篭ったまま表に出てこなかった。ナインに会わせる顔がなかったからだ。
 そうして今度は、そのナインが命を落とし掛けている。
「ちょっと、起きなさいよ」
 キャスはナインをゆさゆさと揺った。
「あたしをムリヤリ起こしておいて、自分だけ眠る気じゃないでしょうね?」 キャスは再びゆさゆさと揺った。
 黒剣に精神を奪われていた間も、黒剣を通して物事を見聞きすることができていた。
 だから、キャスは知っている。
 黒炎の騎士ルドラは、自身の消滅を望んでいたこと。
 一年間ずっとナインを見張っていたこと。
 そして、精神を抜き取られた自分の肉体が行っていたこと。

 ルドラは黒剣に吸われた彼女に語り掛けていた。
 まるで自身の遺言を残すかのように。
 遺志を託すかのように。

 ―― 口づけで魔力と精気を送り込めばいい。簡単なことだ。

 ルドラはこうなることを予測していたのだろう。
 訊ねもしないのに、術歌の犠牲者を救う方法を教えてくれた。
「あんのやろぉ……」
 キャスはポリポリと頬を掻く。
 誰もいないのは分かっている。村人は全員逃げ出したはずだ。けれども、恥ずかしさのあまり、周囲を確認せずにいられない。
 いざやろうと思うと、妙に照れくさい。
 顔が熱い。
 心臓の音がうるさい。
「狸寝入りしてるんじゃないでしょうね?」
 べしべしとナインの額を叩く。
 最後の希望、時間稼ぎ、そのどちらでもあり、どちらでもない。

 額に傷跡が見える。
 それは王都でカールとその取り巻きに絡まれたときの傷だ。
 ナインの上半身を見る。
 古い傷、治りかけの傷、できたばかりの傷。その中にはキャスの知らない傷もあった。
 ナインの身体を見たのは、大聖堂のナインの部屋。
 あのとき、確かにキャスの心は壊れていた。しかし、ただクオンの鎧に反応したわけじゃない。聖騎士の鎧に反応するのなら、他の聖騎士にだって同様の反応を見せたはずなのだ。
 あれは、キャスが望んでいたことでもあった。
 ナインが“クオンのように立派な聖騎士”になることを望んでいたからこその反応だった。
 思春期の女の子には、背伸びをしてみたい時期がある。
 いまだからこそ分かる。
 正直な気持ちは顔を見ながら言えるものじゃない。大きな声で言うことなどできるわけがない。

 キャスは目を閉じる。
 そうして、自分自身に問い掛ける。これからどうするのかを。

 小さな声でも聞こえるように、ずっと傍にいよう。
 声に出さなくても伝わるように、誰よりも近くにいよう。

 ―― アナタにこの想いが伝わるように

 二人の唇が、そっと重なった。


        ― この声がとどくように 了 ―