自分嫌い同盟
柳川はその日の塾を、熱があると言うことで休んだ。事実、熱があるような感じが、彼女の心を螺旋状に削り取っていく。その削られた場所を、どんどんと下へ歩いていくような・・・。
部屋に戻ればみぃくんが居た。けれども、もう学校に味方は居ない。この先、誰が友達になってくれようとも、何時裏切るか分からないという疑心暗鬼に、彼女は駆られなければならなかった。友達ができなければ、このままだ。心をどんどん削られて、更に虐めはエスカレートするだろう。
何が理由で秋山が彼女を裏切ったか、柳川には分からなかったけれども、事実は事実なのだ。あの決別の言葉は、そして彼女が起こした行動は、親友だったという事を見事に打ち砕くだけの巨大な槌であった。彼女はベットに俯せになって倒れ込んだ。側には、みぃくんという名のたった一匹の味方。
底なしに沈んでいく気持ちの中で、一つ芽生えたのは、自己否定の意思だった。
翌朝の期末試験に、柳川と秋山は出席しなかった。一時間目のテストをうけながら、席替えで窓際に移っていた彼は、どうしたものかと思った。
別に直接の関係者ではない。だから、気づかない振りをしていればいい。そういう思いもあった。しかし、彼はあのナプキンに、自分の可能性を垣間見た。今まで傍観者を気取ることしかできなかった彼が、具体的な、それも効果の高い直接行動に出ることができるものが、あのナプキンだった。そう言った意味では彼は不謹慎極まりなかった。何せ彼の意思は、自己否定をし続ける自分を変えたいという、正義や倫理といったものからかけ離れたものだったからだ。そのナプキンが、ああいう結果をもたらしたことに、彼は悩んでいた。
テストに気合いも入らず、ふと気まぐれに外を見た。そして綱木は見てしまった。柳川が学校の隣にある四階建てのマンションの階段、その中腹あたりを登っていることを。そしてどんどんと階層には脇目も触れず進んでいく。彼は先生の制止も聴かず、教室を飛び出した。
走れ、走れ、走れ。脇目もふらず走り続ける。怠慢だ、彼は思った。自分が変わる努力もしないで、何かのきっかけに押しつけていた。そして、今、彼女が何をするかは、大体の見当がついた。ここまで彼女が思い詰めるまで、何もしなかったのも、やはり怠慢なのだろう。だが、そんなことを考えて何になるのか!
そのマンションはオートロックではなかった。入れば直ぐに階段がある。彼はその階段を勢いよく登り、更に屋上の扉は開かなかったためにそれを乗り越えた。恐らく、柳川も女子の身体で力は無いだろうが乗り越えたのだろう。そして屋上の平らな所へ出たところに、やはりいたのだ。
「止めろ」
彼は思いきり叫んだ。
柳川は、驚いた様子で綱木を見た。まさか引き留める人が居るとは思わなかったからだ。
こんな時なんて言えばいい。彼は咄嗟に思いつく言葉が、どれも陳腐で説得力のないことに心の中で舌打ちした。
「綱木君だっけ、あの時はありがとうね」
まるで遺言だと思った。
「でも何も残らなかった。私に親友は居ないの、頼れる人、もう居ないの」
ならば俺が親友になるとでも言えばいいのか、そんなの取り繕った言葉だ。彼は考えるだけ空転し続ける頭のなかで、彼女を止めるだけの何かを探した。
「お前が死んでも、学校の誰も泣かないんだぞ」
虚空に彼の声が空しく響く
「そうね。それだけ、価値がない命なの」
彼女は再びその声の向かう先へ向かって歩き出す。一歩一歩が彼には重く響いて届く気がする。彼はまた一歩一歩進んだ。いや、思いっきり前に進んで、彼女を追い越した。
「お前が、死ぬなら、俺も死んでやる」
彼は彼女より先に、屋上の隅まで到達して、宣言した。
「・・・」
「価値がないなんて言わせない」
彼女は怯えた様子で問うた。
「どうして、そんなことするの」
彼女には分からなかった。恐らく、好きでも嫌いでもない、常に側で見ているだけの人が、どうしてここまでできるのか。
「お前は自分が嫌いなんだろ」
「・・・」
「俺も自分が、嫌いだ」
「だから、何なの」
そうだ、俺は自分が嫌いだ。自分が何かやったところで、何も変えられないと、勝手に思いこんで。そのくせ何かのきっかけがあればそれに頼って自分を変えようとする。今だってそうだ。彼女が死のうとしてるから、俺が止めようとして、自分を変えようとしている。
「自分が変えられるきっかけが欲しかったんだ、ずっと。嫌いな自分を」
「それが死のうとしてる私なの?」
でもそんなのは、後付けの理屈だ、本当に、本当にしなきゃいけないのは。
「直ぐ近くで死のうとしてる奴を、止めない奴がいるか。きっかけなんてどうでも良いんだ」
「・・・」
「目の前で起きることに、がむしゃらになって何かしちゃ、まずいのか」
多分彼女に通じる話ではないだろう。彼は自分で喋りながらそう思った。俺は俺のことしか結局考えてない。でも、止める言葉がそれしか見つからない。
彼女は何か諦めたように嘆息した。
「でも、私が戻っても、またいつもと同じよ、今度はみんな私の敵よ。それとも、私の親友になってくれる?秋山さんみたく、逃げない?」
そう言いつつ、彼女は秋山を恨んでいるような言い方はしなかった。友達が居ないというのは、それだけ怖いことなのだと知っているからだった。
「逃げない」
「どうして言い切れるの」
問いは冷たかった。人を見通すような目をして、どこまでも諦観している、悲しげな目。だが彼は毅然と言い放った。
「仲間だろ」
「え?」
「俺は自分が嫌い、お前も自分が嫌い。だから、自分嫌い同盟だ」
ふと、遠くを見遣る彼女の目元が、涙で潤んだ。そして、泣きながら、笑みをこぼす。
「変なの」
マンションから階段で下りた後、彼は学校へは連れて行かず、お前の家はどこかと、柳川に尋ねた。柳川から住所を聞くと、彼は呟いた。
「がむしゃらになって、逃げるしかない」
「え」
「今まで正面きって受けてたから、疲れたんだろ」
彼女はふんふんと聞いていた。
「親は虐め、知ってるのか?」
「知らない、心配かけさせたく無かったから」
「親にはちゃんと言っておけよ。学校にがつんと文句つけてもらえ」
どこまでも彼は陽気でいた。まるで、自分の中にある可能性を信じたかのように、次々とやってしまえと言い放つ。彼女は知らなくても、彼は気づいていた。
意思があれば、できることがあるのだということを。