立て籠もり犯
土曜日は仕事が休みなので何時まで寝ていようが誰も咎める者はいない。できることならば昼まで眠っていたいのだが、どうしてか朝目覚めてしまう。今日は特に早くて、目を覚まして時計を見るとまだ午前六時だった。平日だって七時まで眠っているというのにこれはどうしたことか。わたしはもう少し寝てやろう、と布団の中で再び目を閉じた。
しかし外が妙に騒がしい。拡声器で割れた声が響きわたっていた。何といっているのかわからなかったが、これのせいで目覚めたのだ、とわたしは気分を悪くして、再び眠ることはできそうにないので、しかたなく布団から這い出て顔を洗った。外は依然として騒がしく、水を飲み、タバコに火をつけながら、外からの音を注意して聞いた。拡声器の声がふたつ、それ以外に肉声で叫ぶ声がひとつ。そこにフィクションでしか聞いたことがないような言葉を見つけて、わたしは少し驚き、もう一度耳を澄ませた。
「おまえは完全に包囲されている」
「おとなしく出てきなさい」
やはり外の声はこういっていた。いったい何事か。わたしは様子を確認するために、閉めたままのカーテンの隙間から外を覗いた。そこにはパトカーが何台も停車しており、ざっと見て二十を越えるだろう警察官の姿が見えた。その警察官たちはヘルメットをかぶり、金属製の盾を持って、わたしの住むアパートを見据えていた。その向こうにはマスコミのものと思われる中継車の姿もあった。
わたしはすぐに一年ほど前の事件を思い起こした。それは、ここからそう遠くない街にある団地で発生した事件で、団地の一室に拳銃を持った暴力団員が立て籠もったのだった。確か警察官のひとりが撃たれて重症を負いはしたが、最終的に犯人は射殺されたはずだった。その事件の中継をテレビで見ていた際、現在外にいるような警察官たちの姿が何度も映し出されていた。
もしや同様の事件がこのアパートで発生しているのか、とわたしは気が気でなくなり、急いで服を着替え、財布を入れっぱなしのカバンに預金通帳や印鑑を押し込んだ。そして部屋を飛び出そうと考えたのだが、万が一立て籠もり犯と部屋の外で遭遇してしまったらどうなるのか、と思い直してテレビをつけた。先ほど中継車も見えた。わたしが思っているような事件ならばテレビで放送しているはずだ。まずはテレビで情報を仕入れたほうがいい。
神奈川県警の警官隊がアパートを取り囲み、犯人の説得を行なっています。
先ほど犯人の姿が見えたような気がしましたが、またすぐに姿を消してしまいました。
情報が錯綜しているのですが、犯人が拳銃、あるいは、ライフル、ショットガンなどの銃器を持っている可能性が高いということです。
警官隊により付近は封鎖されております。
近隣の皆様はお近づきにならないよう、家の外に出ないようにご注意ください。
犯人がどの部屋に立て籠もっているのかはわからないが、わたしの住むこのアパートがテレビに映されたので、ここで事件が発生していることは間違いないようだった。やはりアナウンサーのいうように家の外に出ないほうがいいだろう、とわたしはそのままテレビの中継を見続けた。
こんな時でも腹は減るもので、昨晩は酒を飲んでろくに食べずに寝てしまったこともあり腹の虫が鳴ったが、さすがにのんびり朝食というわけにはいかなかった。冷蔵庫に白米を一膳分入れてあるので、それを温めてふりかけをかけ、インスタント味噌汁を添えた簡素な朝食にするつもりだったのだが、それだけのこともできなかった。
わたしは音を恐れた。もし隣の部屋に犯人が立て籠もっていたらどうだろうか。我が家の電子レンジは、温め終わるとチンやピーピーという簡単な音が出るのではなく、童謡の一節だろうか、電子音で愉快なメロディを奏でる。それが立て籠もり犯の気に障ったらどうだろうか。小便をして水を流す音が気に障ったら、タバコに火をつけるライターの音が気に障ったら、このテレビの音が気に障ったら、わたしは考えるほどに何もできなくなり、ただテレビの音量を小さくした。
一日二日食べなくても大丈夫だが、やはり尿意は我慢できず、わたしは小便をして流さずにトイレを出た。以前の立て籠もり事件だって半日ほどで解決したのだ。不自由だがこのまま息を潜めていよう。わたしはこう考えて、ただテレビを見ていたのだが、しばらく経ってそのテレビから意外な情報が知らされた。
犯人は山田喜次郎。三十歳の独身男性です。動機は今のところわかっておりません。
都内の電子機器メーカーに勤める会社員で、暴力団などとのつながりも不明です。
中学生時代の友人から話を聞くことができたのですが、何を考えているのかわからない男だったが気が小さく、こんな大それたことをするような人間には思えなかった、とのことでした。
また、同僚の方の話によりますと、仕事振りは真面目だが人と深く関わることを避けるタイプで、いつも何かを隠しているような男だ、ということです。
なんということだろう。「山田喜次郎」とはわたしの名前ではないか。「山田」という名字はありきたりだが、今時「喜次郎」などという名前の三十歳はそう何人もいやしないだろう。電子機器メーカーに勤めている独身男性で、何を考えているのかわからない、人と深く関わることを避ける、そんな「山田喜次郎」がわたし以外にいるだろうか。そしてこのアパートに住んでいるだろうか。テレビに映った二階の部屋はわたしの部屋だ。あれはわたしの部屋のカーテンではないか。外の警官隊はわたしを包囲しているのか。テレビで放送されている事件の犯人はわたしなのか。わたしはいったい何をしたのか。
昨日は金曜日でいつも通り会社に向かい、仕事を終えて自宅に戻った。この時点では警察官の姿など見かけなかった。夜は何をしていたか。風呂に入って酒を飲んだ。酒を飲んでからの記憶はあるか。ある。酔うほどに飲んでいない。空腹感を覚えたが遅い時間に食べるのは肥満の原因だと思い、そのまま寝てしまったのだ。時間はまだ零時前だった。そして午前六時に目覚めたら警官隊に取り囲まれていた。わたしは何もしていないはずだ。
それともわたしが多重人格者で、別のわたしが夜中に何か事件を起こしたとでもいうのだろうか。わたしの中にハイド氏がいるとでもいうのだろうか。いや、今までそんな兆候はなかった。確かに世の中や周囲の人々に不満はあるし、悩むことだってあるが、精神を病むようなことはない。
ではなぜ。どうしてわたしの住むアパートは警官隊に取り囲まれ、わたしの名前が犯罪者として全国に報道されているのだろうか。これはとんでもない誤解だ。誤解を解いて警察やマスコミに賠償請求をしてやろう。まったく迷惑な話だが、思わぬ収入があるかもしれない。
わたしは、外で未だ拡声器でわたしを説得している警察官に話をしようと、カーテンを開け、窓を開けた。その瞬間、突如として窓が割れた。それから数回の破裂音が聞こえた。なんということだろう。わたしが話をするまでもなく、警官隊はわたしに発砲したのだ。わたしは慌ててその場に這いつくばり、カーテンを閉めた。
先ほど犯人が姿を見せました。
手には何か拳銃らしきものを持っていたように見えました。
しかし外が妙に騒がしい。拡声器で割れた声が響きわたっていた。何といっているのかわからなかったが、これのせいで目覚めたのだ、とわたしは気分を悪くして、再び眠ることはできそうにないので、しかたなく布団から這い出て顔を洗った。外は依然として騒がしく、水を飲み、タバコに火をつけながら、外からの音を注意して聞いた。拡声器の声がふたつ、それ以外に肉声で叫ぶ声がひとつ。そこにフィクションでしか聞いたことがないような言葉を見つけて、わたしは少し驚き、もう一度耳を澄ませた。
「おまえは完全に包囲されている」
「おとなしく出てきなさい」
やはり外の声はこういっていた。いったい何事か。わたしは様子を確認するために、閉めたままのカーテンの隙間から外を覗いた。そこにはパトカーが何台も停車しており、ざっと見て二十を越えるだろう警察官の姿が見えた。その警察官たちはヘルメットをかぶり、金属製の盾を持って、わたしの住むアパートを見据えていた。その向こうにはマスコミのものと思われる中継車の姿もあった。
わたしはすぐに一年ほど前の事件を思い起こした。それは、ここからそう遠くない街にある団地で発生した事件で、団地の一室に拳銃を持った暴力団員が立て籠もったのだった。確か警察官のひとりが撃たれて重症を負いはしたが、最終的に犯人は射殺されたはずだった。その事件の中継をテレビで見ていた際、現在外にいるような警察官たちの姿が何度も映し出されていた。
もしや同様の事件がこのアパートで発生しているのか、とわたしは気が気でなくなり、急いで服を着替え、財布を入れっぱなしのカバンに預金通帳や印鑑を押し込んだ。そして部屋を飛び出そうと考えたのだが、万が一立て籠もり犯と部屋の外で遭遇してしまったらどうなるのか、と思い直してテレビをつけた。先ほど中継車も見えた。わたしが思っているような事件ならばテレビで放送しているはずだ。まずはテレビで情報を仕入れたほうがいい。
神奈川県警の警官隊がアパートを取り囲み、犯人の説得を行なっています。
先ほど犯人の姿が見えたような気がしましたが、またすぐに姿を消してしまいました。
情報が錯綜しているのですが、犯人が拳銃、あるいは、ライフル、ショットガンなどの銃器を持っている可能性が高いということです。
警官隊により付近は封鎖されております。
近隣の皆様はお近づきにならないよう、家の外に出ないようにご注意ください。
犯人がどの部屋に立て籠もっているのかはわからないが、わたしの住むこのアパートがテレビに映されたので、ここで事件が発生していることは間違いないようだった。やはりアナウンサーのいうように家の外に出ないほうがいいだろう、とわたしはそのままテレビの中継を見続けた。
こんな時でも腹は減るもので、昨晩は酒を飲んでろくに食べずに寝てしまったこともあり腹の虫が鳴ったが、さすがにのんびり朝食というわけにはいかなかった。冷蔵庫に白米を一膳分入れてあるので、それを温めてふりかけをかけ、インスタント味噌汁を添えた簡素な朝食にするつもりだったのだが、それだけのこともできなかった。
わたしは音を恐れた。もし隣の部屋に犯人が立て籠もっていたらどうだろうか。我が家の電子レンジは、温め終わるとチンやピーピーという簡単な音が出るのではなく、童謡の一節だろうか、電子音で愉快なメロディを奏でる。それが立て籠もり犯の気に障ったらどうだろうか。小便をして水を流す音が気に障ったら、タバコに火をつけるライターの音が気に障ったら、このテレビの音が気に障ったら、わたしは考えるほどに何もできなくなり、ただテレビの音量を小さくした。
一日二日食べなくても大丈夫だが、やはり尿意は我慢できず、わたしは小便をして流さずにトイレを出た。以前の立て籠もり事件だって半日ほどで解決したのだ。不自由だがこのまま息を潜めていよう。わたしはこう考えて、ただテレビを見ていたのだが、しばらく経ってそのテレビから意外な情報が知らされた。
犯人は山田喜次郎。三十歳の独身男性です。動機は今のところわかっておりません。
都内の電子機器メーカーに勤める会社員で、暴力団などとのつながりも不明です。
中学生時代の友人から話を聞くことができたのですが、何を考えているのかわからない男だったが気が小さく、こんな大それたことをするような人間には思えなかった、とのことでした。
また、同僚の方の話によりますと、仕事振りは真面目だが人と深く関わることを避けるタイプで、いつも何かを隠しているような男だ、ということです。
なんということだろう。「山田喜次郎」とはわたしの名前ではないか。「山田」という名字はありきたりだが、今時「喜次郎」などという名前の三十歳はそう何人もいやしないだろう。電子機器メーカーに勤めている独身男性で、何を考えているのかわからない、人と深く関わることを避ける、そんな「山田喜次郎」がわたし以外にいるだろうか。そしてこのアパートに住んでいるだろうか。テレビに映った二階の部屋はわたしの部屋だ。あれはわたしの部屋のカーテンではないか。外の警官隊はわたしを包囲しているのか。テレビで放送されている事件の犯人はわたしなのか。わたしはいったい何をしたのか。
昨日は金曜日でいつも通り会社に向かい、仕事を終えて自宅に戻った。この時点では警察官の姿など見かけなかった。夜は何をしていたか。風呂に入って酒を飲んだ。酒を飲んでからの記憶はあるか。ある。酔うほどに飲んでいない。空腹感を覚えたが遅い時間に食べるのは肥満の原因だと思い、そのまま寝てしまったのだ。時間はまだ零時前だった。そして午前六時に目覚めたら警官隊に取り囲まれていた。わたしは何もしていないはずだ。
それともわたしが多重人格者で、別のわたしが夜中に何か事件を起こしたとでもいうのだろうか。わたしの中にハイド氏がいるとでもいうのだろうか。いや、今までそんな兆候はなかった。確かに世の中や周囲の人々に不満はあるし、悩むことだってあるが、精神を病むようなことはない。
ではなぜ。どうしてわたしの住むアパートは警官隊に取り囲まれ、わたしの名前が犯罪者として全国に報道されているのだろうか。これはとんでもない誤解だ。誤解を解いて警察やマスコミに賠償請求をしてやろう。まったく迷惑な話だが、思わぬ収入があるかもしれない。
わたしは、外で未だ拡声器でわたしを説得している警察官に話をしようと、カーテンを開け、窓を開けた。その瞬間、突如として窓が割れた。それから数回の破裂音が聞こえた。なんということだろう。わたしが話をするまでもなく、警官隊はわたしに発砲したのだ。わたしは慌ててその場に這いつくばり、カーテンを閉めた。
先ほど犯人が姿を見せました。
手には何か拳銃らしきものを持っていたように見えました。