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ただ書く人
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涙の味

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天気のいい休日に、外出もせず自宅でゆっくりと過ごす。清水はこの時間が好きだった。清水がこたつに寝転んで何度も読み返した漫画を読んでいると、冬の空はすぐに暗くなってしまった。
 十七時を過ぎ、部屋の中が真っ暗になったところで、清水はようやく電灯のひもを引っ張り、瞬きを強く三回した。
「起きたの」清水の妻である恵の声がした。
「ああ、ずっと起きていたよ」
「寝ているのかと思った。今たまねぎを切っていたんだけど……」
台所にいた恵は、居間と台所の間にあるカウンターまで来て、そこに肘をついて少し上を向いた顔を突き出すようにしてみせた。清水はすぐに体を起こしてそちらに向かい、カウンターを挟んで恵の正面に立つと、その頭を抱くようにして自分の顔に近づけて彼女の目尻に舌を這わせた。
「どう」と恵が上目遣いに尋ねると、清水は笑顔を見せてそれに答えた。

 幼児を相手に性的な興奮をするものもいるし、人形しか愛せないもの、人前での露出を好むもの、汚れた下着ばかり好むもの、毛髪や血液に興奮するものもいる。そういったものと比べれば、自分が涙を好むことは特に異常なことではないだろう。むしろ異常性は少ないのではないか。性的な興奮があるわけでもなく、ただ涙が好きなだけなのだから。清水は常にこう考えて自分を擁護してきた。
 もちろん、他の多くのものから見て異常であることはわかっていた。だからこそ、自分の嗜好を理解してくれている女を妻にできたことは、清水にとって素晴らしい幸運だったといえよう。
 妻である恵も出会ったばかりの頃は清水の話を笑って聞いていた。やがてそれが本気だとわかったのちは、少し怯えながらも、自身の好奇心のためか、あるいは清水への思慕のためか、恵は涙をためた目を差し出すようになった。
 清水は涙を口にする、できれば直接舐めてすくいとる行為が好きなのであって、涙の味には興味がなかったが、恵のそれは清水がそれまで味わったどんな食材よりも美味だった。清水はすぐに結婚を申し込み、清水を慕っていた恵は急なプロポーズに戸惑いながらも承諾し、それから数か月経ってふたりは結婚したのだった。
 以来、恵は清水が近くにいる時に涙が出るようなことがあると、すぐに清水に報告して舐めさせている。といっても回数はあまり多くなかった。清水には故意に出した涙では駄目だという妙なこだわりがあり、夫婦いっしょの時に故意ではない涙を恵が出る、という機会は両手で数えられる程度だったのだ。

 清水が同僚や友人に涙が好きだ、という話をしたことは何度もあった。彼らの多くは清水を「変態」などといいはするが、何でもないことのように笑ってくれた。友人の中には、自分の涙を味見しろというものもあったが、清水はいつもこれを断っていた。興奮がないとはいえ、やはり性的な嗜好なのだろう。清水にも好みがあり、涙ならば何でもいいというわけではなく、できれば若い美人の涙を舐めたかったし、男の涙など見たくもなかった。
 ひと月ほど前の職場の忘年会で涙の話をした際は、「わたしが泣いた時は涙をあげますね」といった女性社員がいた。彼女は四月に入社したばかりだが、要領も器量もよく、清水を含む男性社員はもちろん、他の女性社員も好かれている、いわゆる職場のアイドルといった存在だった。清水はその言葉が冗談だとわかっていながらも少し期待をしてしまい、その期待を同僚に見抜かれて大変な恥をかいた。
 もちろん清水とて、彼女が涙を差し出してくるようなことがあっても、それを口にすることはないだろうと自分を信じていた。恵と結婚するまでは何人かの女の涙を口にしてきたが、結婚してからは恵以外の涙を口にしたことはないし、それを欲したこともない。それは清水にとっては不倫と同義であり、潔癖な清水がそれをすることはなかった。
 職場での清水は評判がよく、小さな会社とはいえ直接関わることの少ない取締役からも優秀な人材と見られていた。特別なひらめきがあったり機転が利いたりといったことはないが、真面目で責任感が強く堅実に仕事をこなすタイプで、人当たりもいいことが周囲の評価を上げたのだろう。入社してもうすぐ八年目で、部長や課長といった役職のない会社だが、現場のリーダーのような地位にあった。嫌味な上司や扱いづらい後輩がいるわけでもなく、同年代の会社員たちに比べれば清水の生活は安穏としただろう。
 後輩のひとりは特に清水を慕っており、清水もその後輩を気に入っていたため、酒好きな彼に付き合って酒を飲みに行ったり、時にはカラオケまで付き合うことがあった。何度か自宅に連れて行って恵も彼を知っているので、彼と酒を飲んで帰りが遅くなっても清水が妻に咎められるようなことはなかった。もちろんその後輩だけでなく、他の同僚を含めて居酒屋に行くこともあり、その度に誰かしらが清水の涙好きについて話をするのだった。

 季節は春になり、新入社員歓迎会を行った夜、清水は突然にして女性から愛の告白を受けた。それは職場のアイドルであるあの女性社員からだった。
 彼女は、清水が結婚をしていることは知っているがどうしても好きだといい、しかし家庭を壊すつもりもない、と自らの告白を完結させた。
「ひとつだけ聞かせてください。わたしのことはどう思いますか。結婚していなかったらわたしでもよかったですか」
涙を流しながらいう彼女に、清水は思わず唾を飲み込んでから「ああ、もちろん」と答えた。彼女は自身の涙を指ですくい、この涙だけでも要らないか、と差し出して泣きながら笑ってみせたが、清水はそれを断った。清水にとってそれは非常に魅力的な涙で、惜しいことをした、という少しの後悔があったが、やはりそれを受けるわけにはいかなかった。
 帰宅後、清水はその顛末を恵に報告した。報告する必要はないのだが、そうしておかないとそれを秘密にしている、やましいことをしているような気がして、報告せずにはいられなかった。
「へえ、よかったね」と恵は軽い調子でいったが、どこか気に入らない、納得していないような心持ちであることは清水にもすぐにわかった。
 その翌週、清水は重い気持ちで職場へと向かったが、その原因である女性社員のほうは明るく清水に挨拶をしてきた。彼女は突然の告白を小声で謝罪すると「忘れてください」と笑って、清水の机の上に飴を置いて自分の机に戻っていった。彼女もいろいろと思うところはあるかもしれないが、職場でそれを出すことはないだろう、と清水は安心して仕事に臨んだ。
 それから三か月ほど経った六月末日、その女性社員は辞めていった。清水は、少なからず自分に原因があるのかもしれないと考えたが、退職の理由を聞く機会もないままに、送別会では月並みな言葉で彼女を送り出した。
 送別会を終えて駅まで歩く間に彼女は清水のそばに来て「本当に好きだったんです」と呟くようにいい、清水も呟くように礼をいって、その日以降清水が彼女に会うことはなかった。
作品名:涙の味 作家名:ただ書く人