トケテキエル
ただ一カ所、夏からほったらかしのパラソルの下だけが雪を避けていた。パラソルの下にぽつんと置かれた木製のベンチを見て彼女は興が乗ってしまったらしかった。寒くても良いから外に出たいと強請られて断ることもできず、半ば引きずられるようにしてバルコニーに降り、寒さを誤魔化すように二人で寄り添ってベンチに座った。
薄く雲のかかった夜空に少し欠けた月が浮かんでいた。風もなくただ静かに降りてくる雪が月明かりに照らされて淡く灯っているようだった。上着を着ていても寒さは身に染みてきた。それでも彼女と繋いだ右手は温かく、それだけでも十分だった。
吐く息が白い。喉に吸い込む空気はどこまでも澄んでいて、心臓にまで伝わるような冷たさだった。身体の芯に届く冷たさと指先を温める熱とを同時に感じて、繋いだ手に力を込めれば彼女がふっと息を吐いて微笑んだ。
「あなたの手、温かいのね」
それは君の手だよ。そう思ったけれど、言葉にはしなかった。ただもう少しだけ指先に力を入れた。
彼女は右手を前にそっと伸ばした。パラソルの外をちらつく雪に触れようと指先を揺らめかせて、視線を合わせないままに言った。
「もうあと一ヶ月もすれば雪は見られないのよね……次にこうして手を伸ばすのは、きっと桜の花びらね」
微笑みはそのままに、瞳にどこか冷たさを残したような表情だった。瞳の黒は時折雪の白を映して、それがまるで光がちらつくようで視線が自然と引き付けられる。
「なんて、次の季節の話をしてみても明日が確実にくるとは限らないのよね」
大きく嘆息して、それきり彼女は押し黙ってしまった。視線は雪に向けたままで口元の微笑みもそのままに、愛おしむような指先の動きを止めて、軽く握ったこぶしを胸元に引き寄せた。
あまりに静かだった。まだまだ人の生活している時間にも関わらず、誰一人起きていないのではないかと錯覚するくらいの静けさだった。こうしているとすべての音が雪に呑まれてしまうようで、彼女の言葉も、心音も、消えてしまいそうで。彼女の言うように明日がこないかも知れなくて。
繋いでいた手にさらに力がこもった。彼女も強く握り返し、こちらを見てくれた。もう彼女の瞳には冷たさは映っていなかった。僕の少し不安げな顔が映り込んでいた。
こんな気持ちは春がきたら忘れてしまうのだろう。雪解けとともに流れてしまうのだろう。だから。
「春になったら、一緒に桜を見に行こう」
そして、あるかもわからない明日の話をしよう。