ポージー
「どうしてつけてくれないんだよー…」
ふてくされた声。
背後から、恋人である直野悠馬抱きしめられ、久保井和己は呆れた溜息を吐き出した。
ここは職場で、もうすぐ同僚であり親友の雨宮温が出勤してくるだろうというのもあるので、このうっとおしい状況から逃れようと、和己は小さく息をついた。
「色々と面倒くさいんだよ。常連からはいちいち詮索されるだろ。その度に説明を繰り返すなんて、そんなのやってられるか」
「……恋人がいるって答えればいいだろ。俺とペアなのが嫌なのかよ」
「そうは言ってないだろ」
「だったらさ、つけてよ」
「しつこい。詮索好きな主婦や会社員が多いんだって」
半分事実で、半分は言い訳だった。
出会ってからずっと、反発しあっていた方が多かったのに、今更恋人だからべったり……なんて。
羞恥心がどうしても勝ってしまい、和己はそっと心の中で二度目の溜息を落とす。
やがて諦めたのか、抱きしめている腕を解くと、悠馬は軽いキスをすばやく頬に落としてきた。
「ちょ…っ、お前っ」
「これくらい許してよ。ただでさえ、最近忙しくてすれ違ってるんだし」
「……まったく」
同居という形をとっていたとしても、生活サイクルがずれていれば、どうしても重なる時間が少なくなる。和己は新しく入ったアルバイトの指導に忙しく、悠馬もまた店が終わった後は、最近頼まれている仕事に出かける日々が続いていた。
以前手伝っていたカフェで、新人の調理師を指導をしている。立場が違っても、指導するのが色々大変なのを理解できるだけに、悠馬も和己もお互いの事情を考慮していた。
温について見習いをしていた悠馬が、教える立場になったんだと何気にしみじみしながら、それだけの時間をこの店で過ごしていたんだと気付かされる。
「おはよう。今日もはやいね」
温が仕事場に入ってくると、今度こそちゃんと悠馬は和己から離れた。
「おはよっ」
「だから、すぐ温に抱きつくなって言ってるだろうがっ」
「朝から元気だねー」
くすくすと笑いながら、悠馬を抱きとめる温に、和己は呆れながらも微苦笑を浮かべる。
以前は、この光景に胸が痛んでいたけれど、今はどちらかというと和やかな時間を共有しているという思いを抱いていた。
いつも通りの日常。
「二人とも、さっさと準備始めろよ」
和己は、温に抱きついている悠馬の後頭部を手のひらで遠慮なくはたくと、自分の持ち場へ足を向けていった。
「でもさ、繋がっていたい気持ち分かる気がするんだよね。ずっと一緒にいたい…とか、そんな風にいくら言ったとしても、現実として立場や生活があるだろうし」
店を閉め、今日も悠馬を見送った後、温と二人でブレイクタイムを取る。
和己からマグカップを受け取った温が、淹れたばかりのカフェオレに口をつけた。
「まあ、そうだろうな」
だから、せめて一緒のものをつけていたい、というわけだろう。
悠馬からも同じ様な事を言われたと呟けば、温はだろうねと頷く。
「寂しいっていう感情は人それぞれだからね」
ほんの微かに寂しそうに翳る表情が、二人の境遇からくるものだとすぐに思い当たった。悠馬も温も、施設で数年過ごしている。いくらあれから十年以上が過ぎていたとしても、愛情というものに過剰に反応する部分があるのか、和己はその事に今更ながら、恋人に取った行動を反省した。
「大丈夫。あいつは和己の性格をちゃんと把握してるから、ちょっとやそっとでへこたれないって。それに、恥ずかしがってるのも分かってるよ」
もちろんぼくもちゃんと和己の事分かってるからねと、返されてしまい、不覚にも照れてしまう。
なので、ちょっとした仕返しとばかりに、和己は温の恋人の名を口にした。
「だったら、国見さんもだな。あれから二度、三度と見合いや結婚の話が出る度、気おくれする温の相手を根気よくして、ちゃんと安心させてくれるんだから。とうとう生涯独身宣言したんだろ。大事で大切な恋人がいるから、それ以外の相手はいらないんです、だったか。結婚できない相手だっていうのも、ちゃんと雑誌のインタビューにも答えていたんだってな」
悠馬から聞いている、国見の告白。 以前に急遽受けた雑誌のインタビューがきっかけで、雑誌の依頼が増えた国見は、最近ビジネス系以外の雑誌に出たり、番組のコメンテーターなどをたまに引き受けている。
露出が増えていく分、インタビューに関しても女性誌関係では、プライベートに関するものが増えてきている。
自分の存在が、相手が不利な立場になったり社会的地位に影響するかもしれないと危惧した温は、恋人になってからも、何度か離れようとしていた。
きっと、和己が考えているよりも、国見を取り巻く会社環境は複雑なのかもしれない。
そんな中、国見の真摯な想いを汲み取り、それをしっかりと噛み締めた温は、何かを強く決心したらしい。
いつだっただろうか。
恋人になったからといって、ずっと順風満帆にいくとは限らないんだ……と苦く微笑みながらも、温の瞳に強い光が滲んでいたのを、和己は思い出していた。
「雄大さんに迷惑をかけていたのは分かってるし、今はすごく反省してるよ。だから、もう逃げないって決めたんだ」
「そうか。まあ、いい傾向ではあるな」
悠馬と国見は、似た性格をしているらしい。
和己や温をとことん甘やかして、もしこちらが拒んだとしても、そんな行動もすべてお見通しだったりする。そして、自分達が持つ我儘さや不安に怯える心を解きほぐし、ぎゅっと抱きしめてくれる。
「ねえさっきの続きなんだけど、そのリングは家にあるの?」
温が話題を切り替えてくる。
問いかけに、和己は椅子に置いてあった鞄を手元に引き寄せ、中からリングの入った箱を取り出した。
「いや、ここにある」
つけないのなら置いておいてもよかったけれど、それもそれでどうかと思い、あれからずっと持ち歩いていた。
「開けてもいい?」
「ああ」
温がリングを取りだす。
シンプルな細身のデザイン。照明の明かりで輝いているのを何気に見つめていると、温がくすくすと笑った。