トレーダー・ディアブロ(1)
二〇一〇年 十一月 六日
フリーライターの八田荘司(はった そうじ)は、ホルヘ・グレリアの邸宅のリビングにいた。
ここはアメリカ、カルフォルニア州ランチョ・パロス・ベルデス市。ロスサンゼルスの南西に位置するパロス・ベルデス半島にあるこの市の住民の平均年収は十万ドルを超えている。その中でも、半島の南端の太平洋を眺めるエリアは更に平均年収が一桁違う者達が集まる超が付く高級住宅街だ。
ホルヘ・グレリアはそのエリアの小高い丘に、広大な邸宅を所有していた。
八田の目の前にいるこの小太りの男が、曾てヘッジファンドの暴君と恐れられアメリカ金融界にその名を轟かせた男、ホルヘ・グレリアである。彼の強引な企業買収により、職を失った者は数知れず。莫大な資金源を盾に、まさに暴君として金融市場を荒し回った男である。
しかし、白髪の頭を短く刈り込んだこの男の顔には、曾ての輝きは無かった。
盛者必衰――。昨年まで運用収益ナンバーワンの実績のもと、アメリカのみならず世界中で出資者を獲得していた彼のファンド、ニューワールドは先月、アメリカ合衆国倒産法第十一章の適用を申請し、事実上破綻した。
この金融不安の時代にファンドの破綻のニュースなど珍しくもない。しかし、曾て運用収益、顧客数、運用資産、その全てにおいて世界一だった彼のファンドの破綻は、世界中のメディアに大きく取り上げられた。だが、それも一時の話で、日々生まれて来る新しいニュースに掻き消されて、彼のニュースはやがて忘れられた。
グレリアの邸宅はガランとしていた。
彼自身も先日、自己破産を申請し、邸宅にある金目の物はほとんど差し押さえられて運び出されていたからだ。
彼の家族も彼を捨てて出て行った。
残されたのは、彼の以前の栄光の証であるこの邸宅のみであった。
だが、この邸宅も既に競売にかけられており、来週中にはグレリアはここを出て行かなくてはならない。
八田とグレリアは広いリビングに残された一組のソファーに、向かい合って座っていた。大きな窓から、昼下がりの太陽を浴びた太平洋が輝いているのが見えた。
リビングには他の家具は何も無かった。所々、床にウィスキーやワインの空瓶が転がっているだけだ。
その空き瓶を見れば、グレリアが破産してからの一ヶ月をどう過ごしていたか、容易に想像出来た。
グレリアの後ろの壁には、以前大きな絵画が飾られていた跡が、壁にくっきりと残っていた。それは、曾てのヘッジファンドの暴君の没落した様子を表している様に八田には感じられた。
「あんた、酒は飲むかい?」
グレリアは唐突に言うと、足下に置いてあったウィスキー、ジャックダニエルの瓶を手に取り、それをやはり足下に置いてあったグラスに注いだ。
「あ、いえ……。私はお酒を飲めません。それに私は今、勤務中ですので……」
「そうかい。俺は飲むけどいいよな? こいつがあった方が話し易い。あんたも商売がし易くなるだろ?」
グレリアはクスクスと笑いながらそれを一口飲んだ。
「では、始めてもよろしいですか?」
八田はそう言うと、グレリアの返事を待たずにボイスレコーダーのスイッチを入れた。
フリーライターとして飯を食っている彼が、相手の返事を待って仕事を始める事はない。大概の場合、呼ばれもしないのに事件現場に出向いて、当事者のプライベートに土足で踏み込んでいく、相手がどんなに嫌がっていても――。八田にとって、フリーライターとはそういう仕事であった。
だから今回のホルヘ・グレリアに対するインタビューも、断られたらアポイント無しで押し掛けるつもりでいた。
しかし、意外にも八田のインタビューの申し出はグレリアにあっさり承諾されてしまった。
彼にとってはこういう相手の方が、仕事がやりにくい。
気を引き締めてかからねば――八田はそう思っていた。
特に今回の本当の目的をグレリアに悟られてはならない。
実は、彼がグレリアにインタビューを申し出たのは、彼の破綻の話が聞きたかったからではない。破綻した元ヘッジファンドの暴君の話は確かに興味深い。しかし、今の時代、大きな会社の破綻の話自体が珍しくもない。それでは、読者の興味をそそるスクープにはならない。
彼が今回聞きたかったのは、ディアブロと呼ばれた一人の日本人テロリストの話だった。
ディアブロは、グレリアの破綻したファンドの専属トレーダーだった。
だが、それ以外の事は全く分かっておらず、なぜ彼がテロリストになったのか、彼の目的は何だったのか誰も知らなかった。だから八田はこの謎の日本人テロリスト、ディアブロの記事を書いてスクープを狙っていたのだ。
その為、彼はグレリアの破綻を建前に今回インタビューを申し出たのである。
しかし、グレリアは今まで一度たりともメディアにディアブロの話をした事が無かった。世界各国のメディアが、まだ破綻する前の彼に、ディアブロの事を聞きに来たが、彼はディアブロの事は一切話さなかった。それは、自分の部下がテロリストであったという不名誉が理由ではなく、何か別の理由がある様に八田には思われた。
「では、まず先月あなたのファンド、ニューワールドが破綻した訳ですが……、その経緯をお教え頂けますか?」
八田は切り出した。まずはお決まりの質問からだ。
しかし、グレリアは彼の質問を鼻で笑った。
「ふん。経緯だと? そんな物、そこらの雑誌か新聞でも見りゃ分かるだろ? 何度同じ事をあんたらメディアに話したと思っているんだ。ネークス……」
「え?」
「ネークス……!」
「あ、はい……」
八田は一瞬戸惑った。
二人の会話は全て英語で話されているが、グレリアはスペイン出身で英語の発音にかなりスペイン語訛がある。スペイン語では語末の子音は発音されない。その為、次(next)という単語を彼が発音すると、最後のTが発音されないので、ネークスとなる。つまり、次の質問に移れとグレリアは言っているのだ。
「あの、あなたはかってアメリカ金融界に名を轟かせた方です。これまでのあなたの運用の歴史の中でも、成績の悪い時はあったと伺っております。しかし、あなたは強引とも見える手腕で、見事に今までの危機を乗り越えて来られた。そのお陰であなたはヘッジファンドの暴君と呼ばれていた。しかし、今回の破綻は悪足掻きもせずに受け入れたそうですが……、それはどうしてですか?」
「どうしてだと? ふん。それも散々聞かれた事だな。ニューズウィークかタイムズでも見てくれ。そこに色々書いてあるだろ? ネークス……」
二度目のネークス。
八田は次の質問に移った。
「ニューワールドの主な投資先は商品先物市場だったそうですが、その運用の中で一番成績の良かった銘柄は何だったのしょうか? また、一番悪かった銘柄は?」
「それも俺が何度も答えた質問だ。答えは同じだ。ネークス……」
またネークスだ。しかも間髪入れずに。
八田はまだいくつかの質問を用意していたが、ここで一旦質問するのを止めた。
フリーライターの八田荘司(はった そうじ)は、ホルヘ・グレリアの邸宅のリビングにいた。
ここはアメリカ、カルフォルニア州ランチョ・パロス・ベルデス市。ロスサンゼルスの南西に位置するパロス・ベルデス半島にあるこの市の住民の平均年収は十万ドルを超えている。その中でも、半島の南端の太平洋を眺めるエリアは更に平均年収が一桁違う者達が集まる超が付く高級住宅街だ。
ホルヘ・グレリアはそのエリアの小高い丘に、広大な邸宅を所有していた。
八田の目の前にいるこの小太りの男が、曾てヘッジファンドの暴君と恐れられアメリカ金融界にその名を轟かせた男、ホルヘ・グレリアである。彼の強引な企業買収により、職を失った者は数知れず。莫大な資金源を盾に、まさに暴君として金融市場を荒し回った男である。
しかし、白髪の頭を短く刈り込んだこの男の顔には、曾ての輝きは無かった。
盛者必衰――。昨年まで運用収益ナンバーワンの実績のもと、アメリカのみならず世界中で出資者を獲得していた彼のファンド、ニューワールドは先月、アメリカ合衆国倒産法第十一章の適用を申請し、事実上破綻した。
この金融不安の時代にファンドの破綻のニュースなど珍しくもない。しかし、曾て運用収益、顧客数、運用資産、その全てにおいて世界一だった彼のファンドの破綻は、世界中のメディアに大きく取り上げられた。だが、それも一時の話で、日々生まれて来る新しいニュースに掻き消されて、彼のニュースはやがて忘れられた。
グレリアの邸宅はガランとしていた。
彼自身も先日、自己破産を申請し、邸宅にある金目の物はほとんど差し押さえられて運び出されていたからだ。
彼の家族も彼を捨てて出て行った。
残されたのは、彼の以前の栄光の証であるこの邸宅のみであった。
だが、この邸宅も既に競売にかけられており、来週中にはグレリアはここを出て行かなくてはならない。
八田とグレリアは広いリビングに残された一組のソファーに、向かい合って座っていた。大きな窓から、昼下がりの太陽を浴びた太平洋が輝いているのが見えた。
リビングには他の家具は何も無かった。所々、床にウィスキーやワインの空瓶が転がっているだけだ。
その空き瓶を見れば、グレリアが破産してからの一ヶ月をどう過ごしていたか、容易に想像出来た。
グレリアの後ろの壁には、以前大きな絵画が飾られていた跡が、壁にくっきりと残っていた。それは、曾てのヘッジファンドの暴君の没落した様子を表している様に八田には感じられた。
「あんた、酒は飲むかい?」
グレリアは唐突に言うと、足下に置いてあったウィスキー、ジャックダニエルの瓶を手に取り、それをやはり足下に置いてあったグラスに注いだ。
「あ、いえ……。私はお酒を飲めません。それに私は今、勤務中ですので……」
「そうかい。俺は飲むけどいいよな? こいつがあった方が話し易い。あんたも商売がし易くなるだろ?」
グレリアはクスクスと笑いながらそれを一口飲んだ。
「では、始めてもよろしいですか?」
八田はそう言うと、グレリアの返事を待たずにボイスレコーダーのスイッチを入れた。
フリーライターとして飯を食っている彼が、相手の返事を待って仕事を始める事はない。大概の場合、呼ばれもしないのに事件現場に出向いて、当事者のプライベートに土足で踏み込んでいく、相手がどんなに嫌がっていても――。八田にとって、フリーライターとはそういう仕事であった。
だから今回のホルヘ・グレリアに対するインタビューも、断られたらアポイント無しで押し掛けるつもりでいた。
しかし、意外にも八田のインタビューの申し出はグレリアにあっさり承諾されてしまった。
彼にとってはこういう相手の方が、仕事がやりにくい。
気を引き締めてかからねば――八田はそう思っていた。
特に今回の本当の目的をグレリアに悟られてはならない。
実は、彼がグレリアにインタビューを申し出たのは、彼の破綻の話が聞きたかったからではない。破綻した元ヘッジファンドの暴君の話は確かに興味深い。しかし、今の時代、大きな会社の破綻の話自体が珍しくもない。それでは、読者の興味をそそるスクープにはならない。
彼が今回聞きたかったのは、ディアブロと呼ばれた一人の日本人テロリストの話だった。
ディアブロは、グレリアの破綻したファンドの専属トレーダーだった。
だが、それ以外の事は全く分かっておらず、なぜ彼がテロリストになったのか、彼の目的は何だったのか誰も知らなかった。だから八田はこの謎の日本人テロリスト、ディアブロの記事を書いてスクープを狙っていたのだ。
その為、彼はグレリアの破綻を建前に今回インタビューを申し出たのである。
しかし、グレリアは今まで一度たりともメディアにディアブロの話をした事が無かった。世界各国のメディアが、まだ破綻する前の彼に、ディアブロの事を聞きに来たが、彼はディアブロの事は一切話さなかった。それは、自分の部下がテロリストであったという不名誉が理由ではなく、何か別の理由がある様に八田には思われた。
「では、まず先月あなたのファンド、ニューワールドが破綻した訳ですが……、その経緯をお教え頂けますか?」
八田は切り出した。まずはお決まりの質問からだ。
しかし、グレリアは彼の質問を鼻で笑った。
「ふん。経緯だと? そんな物、そこらの雑誌か新聞でも見りゃ分かるだろ? 何度同じ事をあんたらメディアに話したと思っているんだ。ネークス……」
「え?」
「ネークス……!」
「あ、はい……」
八田は一瞬戸惑った。
二人の会話は全て英語で話されているが、グレリアはスペイン出身で英語の発音にかなりスペイン語訛がある。スペイン語では語末の子音は発音されない。その為、次(next)という単語を彼が発音すると、最後のTが発音されないので、ネークスとなる。つまり、次の質問に移れとグレリアは言っているのだ。
「あの、あなたはかってアメリカ金融界に名を轟かせた方です。これまでのあなたの運用の歴史の中でも、成績の悪い時はあったと伺っております。しかし、あなたは強引とも見える手腕で、見事に今までの危機を乗り越えて来られた。そのお陰であなたはヘッジファンドの暴君と呼ばれていた。しかし、今回の破綻は悪足掻きもせずに受け入れたそうですが……、それはどうしてですか?」
「どうしてだと? ふん。それも散々聞かれた事だな。ニューズウィークかタイムズでも見てくれ。そこに色々書いてあるだろ? ネークス……」
二度目のネークス。
八田は次の質問に移った。
「ニューワールドの主な投資先は商品先物市場だったそうですが、その運用の中で一番成績の良かった銘柄は何だったのしょうか? また、一番悪かった銘柄は?」
「それも俺が何度も答えた質問だ。答えは同じだ。ネークス……」
またネークスだ。しかも間髪入れずに。
八田はまだいくつかの質問を用意していたが、ここで一旦質問するのを止めた。
作品名:トレーダー・ディアブロ(1) 作家名:砂金 回生