漂礫 六、
「壮平よ、てめえ調子にのって、べらべら喋るんじゃねえぞ。新左衛門が弱いわけじゃねえ。こっちのお侍が強いんだ。あんまり喋りすぎると新左衛門に斬られちまうぞ」と、くぎを刺す客もいた。
「そもそもあいつの突きの速さは尋常じゃない。実力のないやつは逃げることもできずに吹き飛ばされるが、少し腕の立つ奴でも後ろに下がったところをやっぱり逃げ切れずに吹き飛ばされるのがおちだ。それをまさか前に出てぶつかることで倒すとはあっぱれだ」
呆れた。
前に出て、体をぶつけたと思っているらしい。何を見ていたのか。
「そこで、武蔵どの」
壮平が、酒の盃を置いて、真面目な顔をして言う。
「こうして盃をかわして交友も深め、胸襟を開いて話し合った友の話として聞いてほしい」
いつの間に友となったのか、覚えがない。
壮平は続ける。「関ヶ原以来、大阪方の侍どもは帰る場所を失い、行くあてもないまま恥ずかしくも命だけを大事に、侍としての誇りも人としての理性もなく、畜生のように略奪を繰り返していることをご存知か」
俺は頷いた。野武士と呼ばれる山賊となった浪人のことだ。
「この町も、そんな畜生のごとき連中が時折やってきては、盗賊まがいの略奪や、関ヶ原で夫を亡くした後家を喰らうなどやりたい放題。我々も行くあてのない浪人ではあるが、まだ武人としての誇りだけは残っている」
まともな事を言い始めた。
「そこで武蔵どの、友として、武人として、我々にその常人離れした力をお貸し願いたい」
友として、だけが納得いかない。「どうしようと、いうのだ」
旅籠で、夕食を済ませた後、風に義倫の話をした。
「知っている。先代の道場主はよほどの人物だったらしいな」
「なぜ知っているのだ」
「武蔵が昼間、道場へ行っている間、ここで昼寝をしているわけじゃない」
「今の義倫どのも立派だよ」
「優しすぎて剣術はまるで駄目だと噂している。道場の経営は上手だと評判だ」
「俺も、義倫どのの剣を見たわけではないが」
「気になるのか」「強い、弱いと言えば、強いとも思えない」「では何だ」「勝てそうな気がしない」「では強いのだ」「いや、俺のほうが強いな」「では試合っても無駄だな」「いや、勝てそうな気がしない」
「つまらない」
そう言って、旅籠の二階の部屋から風が外の通りを見た。「武蔵にお客のようだ」
「俺に」
すぐに旅籠の奉公娘が部屋に来て言った。「お客様が訪ねてきたよ、お通しするね」
「名前は何と名乗った」
「聞いてない」
すでに階段を雑な音を立てて上がってくる音がして、娘の後ろへ壮平がやってきた。
「いや、これは、こんなに美しい奥方をお持ちとは」
風を見て言う。風は何も答えず、旅籠の奉公娘の手を取って部屋から出て行った。
「あれあれ、」と、階段を下りていく風を見ていたが、「喧嘩でもなされたか」と勝手に部屋の中へ入り込んできた。
「間の悪い所へ来てしまったが、考えようによっては良い間合いでしょう。夫婦喧嘩も剣術と同じ、鍔迫り合いを続けていては疲れてしまいます。少し下がって間合いを取られたほうがよいときもございましょう」
壮平は正座して、急に声を小さくして言った。
「先生、」
「誰が先生だ」
「武蔵どのが」
「それでいい。先生などと呼ばれる筋はないし、かしこまる必要もない」
「武蔵どの、さっそく用心棒の話を付けてまいりました。今日の夜にでもお願いしたい」
二階から通りを見る。日が暮れ始めて、足早に家路を急ぐ人たちが往来している。
「かまわないが、」
「報酬はたっぷりございます」
「本当に野武士はでるのか」
「出たときのための、用心棒です」
場所だけを聞いて、行く約束をした。壮平が帰ると風が戻ってきた。
「ばかばかしい話に乗ったものだ」と、風が言う。
「用心棒のことか」
「誰のためになるというのか」
「第一に、金がいる。こうして旅籠に泊まるのも銭が必要だ。次に、力ない者たちを野武士から守る必要もある」
「ほんとうに野武士が来ると思っているのか」
「出たときのための、用心棒だ」
風は呆れたように、ため息をついた。
「約束の場所には、雇われた用心棒がほかに何人か来ていると言っていただろう」
俺は頷く。
「じゃあ、その場所で、きっとこう言われる。野武士が来ても、斬ってはいけない。大声を出して近所にも知らせて、逃がすようにしろ」
「何のために。なぜ斬ってはいけないのだ」
「斬ってしまっては、もう略奪に来ないだろ」
「そのための用心棒だ」
「用心棒が必要なくなれば、あの壮平とかいう男は、どうやって日銭を稼ぐのだ」
「あ、」
「あの男は、自分で用心棒などしていないのだろ。武蔵のような浪人を雇って稼いでいるのだ。商売だ。もしかすると、野武士として現れる連中も、壮平に雇われた浪人かもしれない。雇われていないにしても野武士も斬られないことくらい心得ているから、用心棒たちがいて大声を出せばその日は適当に退散していくのだろう。」
自分自身、馬鹿で情けなくなった。
「もう寝よう。用心棒などやめだ」
「せっかく約束したのだから、今日ぐらい行ってくればいい。銭が必要なのは間違いない」
壮平から聞いていた豪商の屋敷に着くと、ほかに三人の浪人がいた。
「おう、壮平から話は聞いているぞ。新左衛門を転がしたらしいじゃねえか」
酒壺を抱えて大声で笑いながら盃を差し出してきた。「まあ飲め、挨拶がわりだ。俺のことは猪三郎(いさぶろう)と呼んでくれ」
猪とはよくできた名前だと思った。本名なのか、風貌からそう呼ばれているのかは分からないが、髭が濃く手入れもしていないので顔中が毛だらけに見えた。体も大きいが引き締まっているわけでなく腰の大刀が頼りなく見えるほど腕も首も太い。あとの二人も豪快な笑い方と酒の飲み方だった。
これでは、どっちが野武士か分からない。
「いいか武蔵、野武士が現れたら、できるだけでかい声で、野武士が出たと叫ぶんだ。たいていはそれで逃げていく。逃げたら追いかける必要はない。放っておけ」
俺は適当に頷いた。「分かっている。斬ってはならないのだな」
「おお、そうだそうだ。話が早い。そういうことだ」と笑うと、急に大声で言った。
「俺たちがいれば、野武士が怖気づいて近づいてもこない」
日の落ちた町に、猪三郎の声が大きく響いた。
子の刻が過ぎた。猪三郎は酒を飲みながら関ヶ原の戦いの思い出話をする。槍が折れ、背中に矢が刺さったまま相手に組み付き槍を奪い、馬の腹に突き差し引き倒した。猪三郎の話は尽きない。あとの二人は何度も聞いた話だと言って、酒を飲んだあと居眠りを始めた。
「どれだけ剣術が強くても、どれだけ力自慢だとしても、人間一人の力じゃ戦には勝てねえ。な、そう思うだろ、武蔵」
立ち上がった。
「どうした」
「野武士だ。来た」
猪三郎も、立ち上がる。酔っているのか、足元が緩い。
「大声を出せばいいのか」「そういうことだ」「みんなが起きてしまうが」「起こして、用心棒の有難味を感じてもらうのさ」
十人ほど、獣の皮を肩から羽織り、槍や刀を抜身で下げた男たちがいた。
「野武士だっ、野武士が出たぞっ」
叫んだ。静かだった町が少しざわついた気がした。