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鳥居の村

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 クラッチレバーに軽く添えられた指先を手前に引き寄せるとバイクの非難めいたエンジン音が途切れ、代わりに無数のクラッチ板がエンジンオイルの中で安寧せしめたように低い音を上げる。それと同時にタコメーターの針は7千回転から5千回転までにすとんと落とし、急激な速度の落差にあわてて膝に挟み直したタンクのひんやりとした金属感に、尚隆は恨めしい気分がした。
 ーーもう、ガソリンは無いにも等しいのだ。
 日は暮れかけ、黄昏色に染まろうと山の稜線は橙色に溶けつつある。
 もうすぐ日が落ちる。見通しが悪くなる中、現在地でさえ定かではない山奥深くの峠を、この先に町ーーでなければーー集落のひとつやふたつあると信じて峠道を超えねばならなかった。
 好奇心本位で国道から道を外れ、この峠道にバイクを向けたのは、人気のない観光地、もしくはキャンプ場、あるいは野宿に良さそうな場所があるかもしれないと、ただ直感に従うままにバイクを走らせていた。だが、峠道は蒼天の空から差し込む日差しを互いに重なり合った木々の枝が頭上を大きく遮り、緑の影と日差しを交互に落とし、広々としておうとつすらない整備の行き届いた二車線の峠道から、やがてはアスファルトのひび割れた隙間から生えた草木に道の一部に顔を覗かせ、中央の興隆した、陥没地帯の目立つ狭い一車線へと移り変わっていた。
 こんな道を通るなんて考えなければよかった。自分の直感はつねに当てにならないと感じていながらも、それには逆らうことのできなかった自分自身の好奇心と不甲斐なさに尚隆は自身を一層恨めしく感じた。
 メーターにFUEL表示が激しく点滅しているのを瞬きの間に確認する。それが点滅をはじめてから既に40分以上、距離にして約25キロ。普段の倣いから、持ってあと数キロ、ーーいや、ここまで来るためにエンジンの回転数をずいぶんと回してしまっていたから、それ以上に足りないかもしれない。
 ーーだが、もう戻るには戻れない。国道にバイクを引き返して走らせたとしても途中で力尽きるのは明らかで、重さ200キロ以上ーーガソリンが空に近いともいえーーもある鉄の塊を押して峠を引き返すだなんて考えただけでもおぞましい。
 つまりいま現在の状態を、強迫観念に駆られてバイクを走らせている、と言ってしまってもよかった。
 尚隆は頭を振ってそれまでの考えを振り払う。赤茶の錆びに覆われたガードレール、そこから半ば倒れこむようにして背後の薄暗い林に伸びたカーブミラーから視線を道の先にと差し替える。ギアを一段シフトダウンさせエンジンブレーキの心地よい振動を体に感じながら緩やかなカーブを下っていくと突然に道の開けた場所に出て、尚隆は思わずブレーキをかけて停車した。
 車一台がUターンが可能な、円形状に膨れた道。
 傍らの僻地には木製の東屋とベンチが粛々と置かれている。艶やかな赤い塗料がそれらにひどく古びた印象を与えていた。
 ベンチの奥には見晴台が空に向けて張り出されている。夕暮れの中にあって、それは山々を背景に浮かんでいるようにも見えた。尚隆はバイクから降りると足早に駆け寄る。街か、もしくは村が見通せるかもしれない。
 見晴台の手すりに体を凭せ掛けて周囲の景色を俯瞰する。夕焼けに淡く彩られた山腹、そこから下に視線を転ずると小さな、こじんまりとした湖が水面を橙色に染めている。そこに黒々と点在しているのは船だろうか、水面に小波が立つ中でそれはゆったりと浮かんでいた。
 湖の周囲には畦に囲まれた田んぼがある。さらに周囲に目を配ると青や赤と目にちらつくのは家々の屋根か。それらに向けて走っている幾線もの灰色は道。
 ーーそこは小さな村だった。
 尚隆は目を細める。家々の屋根とは別に、それも決して小さくはない白い建物がいくつか見えて尚隆はうれしいあまりにほっと嘆息した。
 おそらくホテルか、旅館か、その類だろうか。尚隆は焦る気持ちを抑えて手すりから身を乗り出し手前の山を確認した。村の麓にまで蛇行しながら、峠道は山肌に覗いている。どうやらこのまま峠を下っていけば間違いなくあの村には辿り着けるようだった。
 「――あそこまでだったら、持つよな」
 尚隆は振り返り、バイクに独りごちた。
 深いため息にも似たラジエーターの冷却音を発したバイクにもちろん答えがあることを期待していたわけではなかったが、それがつい癖になっていた。なんとなしに物事に行き詰りを感じると一方通行の会話をバイクに語りかけ、行き詰まりが解けると独りごちの会話に花を咲かせる。――それが自分自身の気晴らしでもあり、また、他人に理解されない行為でもあることは尚隆は自分でもよくわかっていた。
 「お前ってほんと無愛想。話かけても無視だもの」
 話しかけながら仕方がないんだと尚隆は思う。
 日本一周で自分自身を磨きたいからと体の良い理由で身ひとつで家を飛び出したはいいが、その実、それは現実からの逃避に他ならなかった。いったい何が嫌で飛び出したの、と問われても、これといった答えを算出することはできそうにもなくーー全てが突然嫌になってしまったんだと答えれば、それはそれで的を得ているようにも思えた。
 携帯を持たずに煩わしい日常から抜け出して開放され、風来坊気分に心根を酔わせながらも、日に日に人恋しさは積もり、道の駅で他のバイク乗りに当たり触らずな会話を持ちかけては、それに歯止めをかけていたが、日に日に話しかけることは余計に人恋しさを招くだけだと気付いてからは、極端に人との会話は少なくなり、やがてはバイクに話しかけて気分を紛らわすことが癖になっていた。
 だから答えを期待していたわけではない。なにか言葉を発して気持ちが落ち着くならそれでよかった。
 ラジエーターの冷却音が途切れる。あたりはしんと静まりかえった。
 跳ねるように手すりから体を起こしてバイクに向かう。
 ーーふと、視界の隅にそれを捕らえて尚隆は思わず立ち止まった。
 赤く塗られた東屋、艶やかな塗装は夕暮れの逆光の最中にあっていっそう古びた印象を強くしている。その手前、腰のあたりにまで伸びた潅木の茂みに半ば隠されたように置かれたそれは深い朱色で、潅木の緑色の中で鋭利な形に際立たせていた。
 ――鳥居。
 ちょうど湖の方角に向けられている。
 尚隆は首を傾げ、ふと見晴台に振り返った。
 とつぜん、どこかでこの景色を見たことがあるような気がしたからだった。
 どこでだっただろうか。黄昏が落ちる湖の水面。田んぼ。畦から道路、家々へと続く道なり。赤と青の無数の屋根。それを囲むように配置され、湖に臨む白い建物。ときおり耳に興ずる動物の嘶き。それらはひどく尚隆を懐かしい気分にさせる。
 尚隆は背後に鳥居に意識を向ける。
 朱色の鳥居。
 どこかで、これと同じ風景を見たことがある。
 ここはーー。
 尚隆ははっとして目を見開く。
 「……ふるさと?」
 厳密に言えばそれはふるさとなどではなかった。幼い頃の記憶に、ここに住んでいた、という記憶。だがそれはあまりいい思い出とはいえなかった。
 ーー無数の足並が砂利を踏みにじる甲高い音。
 ーーいくつもの松明に照らされて影絵のように蠢く人影。その人影が揺れながらドアを乱雑に叩く音。
作品名:鳥居の村 作家名:岩崎 司