有刺鉄線
vol.9 再会
圭佑が旅立ってから、藤崎は自分には気にかかるものが他に何もないことに気づいた。
それまで通りの生活に戻っただけだと自分に言い聞かせるしかない。あの子と知り合ったのはほんの一年に満たない間であり、何度も会うようになったのは後半の数ヶ月だけだった。それなのに自分自身の説得など無意味なほど自分を説き伏せるのは難しかったのだ。
荒んだ毎日が再び始まった。
人の目を憚る非人道が藤崎の生業である。圭佑と別れることになったのはむしろ正解だったのだと独りごちた。馴染みの女の傍で癒され、藤崎の欲望の対象である男たちと交わった。時が解決してくれるのだけを信じて待った。
そんな時でも圭佑との繋がりを断ち切ることはできない。藤崎はこっそりと圭佑の思い人である桐野行哉の動向も追っていくのだった。
彼が住まいを移せば自分も続いた。圭佑がもし帰国すれば必ず行哉の所へいくはずであり、そのことだけが藤崎の僅かな希望になった。
とはいえ、行哉が住居を変えたのは二度にしかすぎない。藤崎は行哉の行動が腹立たしかった。生真面目な彼は圭佑に会いに行こうとするわけでもなく、何人かの女性と交際し、やはり真面目そうな女性と結婚した。行哉夫妻が移り住んだ町の近くで小さなバーを始めることにした。表向きはすでに悪行からは足を洗ったと言う形にしてひっそりと影の行動は続けていた。
少年だった圭佑と離れてからすでに10年が過ぎていた。
藤崎のバーの名は「フェイドTOブラック」その名の通り黒っぽさを基調にした店に藤崎は立ち続けた。いつか、圭佑がふと現れる、そんな想像をしては打ち消して時が過ぎていく。
そしてある夏の終わり、日が沈んだばかりの頃、黒い木製のドアを開けて金色の髪の男が入ってきた。
大柄というほどではないが、すらりとして見える肩幅と姿勢の良さが彼を引き立てて見せた。爽やかな水色のシャツの着こなしとぴったりとしたジーンズが男を感じさせる。
人目を惹く金色の前髪を煩そうにかき上げ、初めて来た客らしく店内を見渡している。ジャズの音が低く流れ、男はその音に合わせるようにゆっくりと近づいて来る。
空調をやっと入れたところでまだ汗をかいていた藤崎は肥えてきた体躯を狭いカウンターの中に押し込んでいた。その姿を見たせいか、金髪の男は口の端をにっと上げて聞いた。
「座ってもいいかな?」
藤崎はその声の主を見た。心臓の音が聞こえるほど高鳴った。
「忘れたの?」
その声を聞き忘れるはずがなかった。
「圭佑・・・か?」
その男は昔よくしていたようにカウンターに頬をつけ、笑い出した。
「バーボンにしてよ」
昔とは違い、圭佑は出されたウイスキーを美味そうに口に運び、煙草に火を点ける。
髪は明るい金色に染められていたが、人懐こい微笑みを浮かべる顔は前と変わらない、と藤崎は思った。いや、記憶の中の彼よりも今の圭佑は藤崎を直で惹きつけた。もう子どもだから、と遠慮する気遣いは無用なのだ。それでもその変わらない笑顔が藤崎を戸惑わせ恥じらわせた。
「・・・ちっとも変わらないな、おまえは。いや、随分と男らしくなった」
「藤崎さんだって男前が上がったよ。今のほうがいいな」
藤崎は苦笑する。
「肥って髪が後退した、ということだな。目も悪くなったのか、すぐにおまえと判らなかった」
「こんな金髪だからね。すぐに黒髪に戻すよ。じき就職するから」
「ほう。そうか」
「結婚してるからね。女房を養わないといけないんだよ」
藤崎のグラスを拭く手が止まった。「結婚?」
「それが驚くよ。冴子なんだ。高校の時、つき合ったあの子さ。こともあろうにアメリカで再会して夫婦になったんだ」
藤崎は文字通り驚愕した。帰国してすぐこいつは俺を心配の渦の中にたたき込みやがる。
冴子、という女を藤崎は好かなかった。それは単なる嫉妬とは違う。あの女には執念にも似た狂気があった。
圭佑は必ず危険な道を歩き始める。いやもう歩いているのだと藤崎には判った。