有刺鉄線
vol.1 恋慕
藤崎が店主として立つ、バー「フェイドTOブラック」に若い男がやって来たのは夏の終わり頃、日が沈んだばかりの時間だった。黒い木製のドアを開けたその男は、ほっそりとしたシルエットで金色の前髪を煩そうにかき上げた。
男はさほど広くはない店内を見回している。静かに流れるジャズの音に合わせるようにゆったりと近づいて来た。藤崎は黒い光沢のあるカウンターの中に分厚い身体を押し込んで一人グラスを熱心に拭いて並べている。
「座ってもいいかな」男の声に藤崎はもう一度声の主を見やった。そして暫くの間、声を出すことも忘れたように動かなかった。
返事をされないまま男はカウンターの端の席に座り、人懐こい目を見せて聞いた。「忘れたの?」
厳つい顔のマスターはやっとのことでかすれた声をだした。「圭佑・・・か?」
圭佑、と呼ばれた若い男はカウンターの上に片腕を敷いて横むきに頭を着けると「バーボンにしてよ」と笑いだした。
藤崎は初めてその少年を見た時から、危険な匂いを感じていた。やばい、と直感した。深入りすることはしまい、と己に誓った。だが逃げることもできないことがその時から判っていた。
少年の名前は吉田圭佑と言った。
特定の趣味を持った客だけが訪れる「クラブ 黒蘭」の常客である澤村に連れられてきていたのだが、なんの興味もない、と言った様子で澤村に勧められたカクテルを舐めて顔をしかめていた。
まだ15歳ほどにしか見えない。身長も平均を少し上回る程度だろうか。だが四肢が伸びやかで運動を常にしている者らしい筋肉の付き方と真っ直ぐな姿勢をしている。富裕な澤村の愛玩者とは思えないごく当たり前の、むしろこの店では見かけない洗いざらしの生成りのシャツと色の抜けたジーンズに履き古したスニーカーといういでたちである。いかにも金のかかったスーツを着こなし薫り高いコロンと高価な腕時計が目に入る澤村の側にいるのが不釣り合いだった。
藤崎は話しやすい相手とは言い難い男だが、澤村は新しく手に入れた玩具を見せびらかしたかったらしい。藤崎を見つけると気さくに声をかけてきた。
「藤崎くん、久しぶりだね」
顔にも金がかかっているのだろうか、60歳に近いはずだが若々しい整った美貌を崩して澤村は笑って見せる。「この子は知り合ったばかりなんだが、圭佑くんと言ってね。ご覧のとおり、ぼくがどんなに言っても誂えた服を着てくれないんだ」
「どうせすぐ裸にするんだから金の無駄だよ」あっさりと言ったその声は屈託のない明るい響きを持っていた。藤崎は笑いを噛み殺すしかなく、澤村も苦笑しただけだった。「こんな子なんだが、良い子なんだ。今後、見かけたらよしなに頼むよ」
「勿論ですよ」藤崎は見すぎないように気をつけて少年に目をやった。
ふて腐れて藤崎を見ようともしない。カクテルに飽きて注文したオレンジジュースのストローから子どものように泡を出して遊んでいる。が、ちらりと澤村を見る目にぞくりとする魅力があった。
日に焼けた頬と無造作に伸びた髪が映った。汗の匂いがしたように思えた。