犀
それは過ぎ去りし十一月の文化祭にて販売した短編集の表紙についてである。緑簾は、九月の頭に依頼されたものを十月下旬に設定された〆切を一日過ぎてから提出したのだ。しかも仕事に対し本格的に取り掛かったのが〆切日の夕方であり、おまけに紙の規格を間違えていた。出来はというとはっきり言って、普段の緑簾の作品と比べると余りにもお粗末としか例えようがなく、編集を担当した翠銅などは思わず天を仰いだが、尖晶と共に相談して此方から依頼したのだからと口を噤んだ。
然し、その全ての過程を知る灰長からすれば、この結果は甚だ不本意であって、到底許せるものではない。売上に直接影響するのは勿論、執筆陣や水銀のような挿絵画家に対し、礼を欠く行為であるとして、眉を顰めた。
以前から緑簾の集中力の欠如を察していた灰長は、表紙云々の事件が起きるより前、夏の時分に進路の為の他己診断を緑簾から頼まれた際に、その点をこと細かに指摘していた。灰長は誰より冷静な理屈の人である。微塵も改善を見せない緑簾に、呆れよりは憤懣を湧き上がらせるのは友情故であろう。
加えて、緑簾は天性の愛嬌と優れたユーモアを備えるが故に、どうにも憎めない人物なのだ。周囲の者がそう強く注意せぬままに放置してしまうのも、灰長を苛立たせる一因なのは間違いがないが、如何せん、灰長自身がそれを認識していないのだから厄介なのだ。差し詰め、彼の切れ者灰長も情には弱いと言った所であろうか。本当の状況とは第三者でなくば把握は出来ぬのだ。
第三者といえば、仲間内で多くの場合当事者でありながら第三者に近い目線で物事を見ているのが褐鉛である。
具体的に誰が何を考えているのか大抵は知らされない立場に居るが、場の空気を読んで気分の転換を図るのが絶妙に上手い。予想の範疇を出ないが、人の感情に聡いのだろう。誰かが精神衛生上不健康な状態であるのを悟ると、さり気なくトランプを用意したり話題を振るなどして、今は思い悩む時間ではなく楽しむべき時間だと思い起こさせるのだ。集う仲間の誰しもが、彼女には感謝してもし足りない程のものを贈られているのではあるまいか。
人と人とが関わりを持ち続けるのは細い細いピアノ線の上を渡り続けるようなものだ。常に危険を孕んでいる。危険とはつまり、相手に対する失望だとか憤懣だとかともすれば憎悪であって、まるで無関係な他人であれば許せる事も、親しい間柄では許せなくなる。
誰も彼もが縁によって懊悩するのだ。縁とは即ち根拠のある独り善がりな思い込みである。無責任で自慰的な一体感である。個は個でしかなく、己は己を理解など出来ずまた他を理解するのも出来ず、だからこそ極楽も地獄も両方が、心臓だの脳味噌だの、涙幕の向こうだのに存在しているのだ。世は全て、人という異形が織り成す鳥獣戯画である。
翠銅も最も苦しんだ一人であった。苦しまぬ人間は居ないが、辛酸を比べるのに意味はないが、然し苦しみがあった事は確かである。彼が負うたのは責任だの重責だのという名前の厄介な、所謂誇りという奴で、彼が彼であるが故に生き難かった。
自ら酒に溺れたがる父を軽蔑し、買い物に依存しようとする母を哀れみ、手首を切っては足掻く上の妹の傷痕を刮目して見据えねばならなかった。翠銅は二人の妹を持つ長男である。警官やら教師やらの公務員を多く排出し、誰もが社名を耳にする大企業に務める者も結構な割合で居るという、既に成功した一族の家の一つに産まれた長子である。
尖晶と出会った時、翠銅は力の抜き方を知らなかった。人生の楽しみ方、余裕の持ち方というものを知らなかった。彼は角を誰にも見付けては貰えなかった。故に孤高であった。潔癖であった。気が狂う寸前のように見受けられた。だが、同じ角持ちに出会えた。奇跡であった。孤軍奮闘の日々が漸く終わりを告げた。これは尖晶も同じであった。旗の代わりに角を掲げた、たった二人の味方である。社会は偏見に満ちた戦場であり、会う人は無神経を振りかざす敵であった。
ただ尖晶は既に狂っていた。尖晶の赤い角はよく目立った。過去に異形として獣のように追い立てられ苦渋に敗れ自らの口の肉を噛んで、血で牙を汚し塩辛い味で舌を染めて、鉄錆の臭い怨嗟の臭いで肺を満たした。
狂う方法を知っていればこそ、どのような手段を取れば狂わずに居られるのかを尖晶はよく知っていた。翠銅が身の内に溜めた泥を吐き出させようと細心の注意を払った。翠銅は尖晶が狂っていると知りながらも恐れる事はなかった。互いが線一本を跨いで隣り合っているのだと無言の儘に悟った結果であった。