失態失明
二
「ロープ……、ロープ……」 尻餅をついたまま、足を使ってガサガサとロープを探す。 夕暮れの森は柔らかく影を落とし始めた。
富士はスムーズに色付き始め、紅潮した地肌を厳かに晒している。 「ロープはどこだよおおお!」 数少ない若木はまだ訝しんだ様子で、男から発せられた叫び声を受け入れようとはしなかったが、数多の老木達が無残に吸収したため反響は驚くほど小さかった。
男の頭上を羽化したばかりのアゲハが急ぐように踊る。そのリズムで、その意思で、その身体的構造が織りなす鼓動で、躍動する。あまりに緩やかに流れる悠久の景観とは対照的に、進化しきった最新のアゲハは微動する。細かい旋律がプログラムされているように、パタパタパタと、フリフリフリと。
「あった……、あった。はあはあ」 男は足に絡み付けたロープを手繰り寄せて、ぐっと握りしめた。
自分の荒い息づかいだけがやかましく耳に響く。
頬に何かが触れたような気がして、慌てて両手で振り払う。
空を切った腕がやけに軽く感じて、腕や足が自分の元から離れてしまったような錯覚に陥った。指先の末端の神経だけが、本体から離れて浮遊しているような。ちょうどペンライトの先端の光が残光の余韻を糸引きながら素早く振られるような感覚で、当人を驚かせる。
男はロープを握り直して、頭の整理がつかないまま、次に何をすべきかを考えようと努めた。
とにかくもう一度首を吊らねばならない。
今は前進するしかない。自分の身に何が起ころうと、どんな災いが振りかかろうとも関係ない。
傍にある太い木を手で伝いながら幹を確認すればいい。しっかりと体重をかけて強度を念入りに確かめる。それくらいは目が見えなくてもやれるはずだ。出来るだけ幹の根本の方を選んで、また折れるようなことがないように気をつけなければならない。
もう後戻りは出来ない。死ぬしかない。死ぬしかないんだよ。
四日ほど睡眠を摂っていない脳は、不穏な信号を不正確に乱発し、不吉な信条を不安定な意識へと送り届ける。心臓は暴発しそうな鼓動を強いられ、その能力の範囲で過酷に虐げられる。
男は呼吸を深く重く意識して、ゆったりとしたリズムに整えようとした。
重く、ゆっくり、深く。静かに、静かに。
呼吸以外に何も無い。ここにはそれ以外に何も無い。
見渡す限りの夥しい数の木々も消え、富士も消えた。枯葉も、空も、自分の手足すら見えやしない。
何がどうなってしまったのか、未だ心の底から信じることなど到底出来ないが、両の目があの当たり前の映像を映し出してくれない。
ふと、広大な樹海の深淵から包囲するように襲ってくる一切の静寂に溺れ息が詰まりそうになる。今、貶められた場所は盲目も手伝って樹海の中でも深海部にまで到達し、もはや光が届くことはない。
男は胸ポケットから覚醒剤が入った小さな袋と注射器を取り出した。
小袋を落とさないようにしっかりと握り締め、注射器は前方に向けて思い切り放り投げた。
一本の細い若木に命中し、儚い音を立てて粉々に砕け散る。
図らずも呼吸は荒さがぶり返してくる。小袋のチャックを開けて、唾で湿らせた震える指を慎重に突っ込んだ。指の先端に砕かれた結晶がざらつく。そして、そのまま口元にそーっと運び、豪快に指の根本までくわえ、舐めまわす。独特の苦味が舌をギスギスと刺激した。男は同じ動作を数回繰り返す。消え入りそうな呪いに薪をくべるように、大事に大事に舐めまわす。
注射器ほどの威力はない。だが少しずつ全身が粟立っていく戦慄を感じる。脂汗が背中一面に植物の芽のように生えてくる。肩が震えたのは寒さのせいじゃなさそうだ。何かが何かの水準にまで到達したのかもしれない。
ささやかな気休めを獲得すると、丁寧に小袋のチャックを閉めて胸ポケットにしまい、腹筋に力を込め、男はゆっくりゆっくりと後方に身を倒した。
そして目をカッと見開いて、見えない夕暮れの空を描いた。
一番星を見つけた。キラキラと、燦然と光り輝いている。二つ目の星、三つ目の星。次から次へと見つけることが出来た。
覚醒剤のせいか、体からの悪臭がいつもより増して強くなる。
目に染みるほどの刺激臭。危険を感じたのか、涙腺が咄嗟に反応し、涙が網膜を薄く覆った。
このままここで、このままの状態で、腐っていくような死に方もいい。放置された廃棄物のように風化していければいい。意識を保ったままなら尚ありがたい。悠久の壮大な変遷を感じながら、そこら辺に転がる岩のように。
執拗な喉の渇きに襲われたが、持ち込んだペットボトルを探そうとはしなかった。ダラリと力の抜けた全身で味わう多幸感と脂汗で、初秋の肌寒い空気を跳ね返すことが出来た。
いつの間にか夜空は隅々まで星がちりばめられ、満天の輝きで溢れかえる。
今まで拝んだことのない鮮やかな星空。
真二はもうそれだけで十分だという風に、少しだけ微笑んで、気絶するように眠りに落ちた。