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失態失明

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      *

「いつ出ていったの?」
 警察官が事情を聞いて帰った後、俯いたままずっと泣き止まない未来亜に向かって尋ねてみたが、わからないという風に首を横に振っただけで正確な答えは返ってこなかった。
 未来亜のそばには、父が昔紙に書いて壁に貼り付けてあったボロボロの緊急連絡先一覧表が無造作に落ちていた。元々貼り付けてあった場所には生き生きした壁の色がくっきりと昔のままの状態で残っており、周りの壁は長い年月と父が吸うタバコのヤニなどで黒ずんでいて、相対的に浮かび上がったかつての断片からは、私達が幼い頃によく見られた父の優しく微笑んでる顔がぼんやりと思い出された。
 静けさはとても自然で、それ自体に不安を煽られるようなこともなく、壁に掛かった時計の秒針の音は素直で、やっぱり何も、誰も悪くはなかった。
 そしていつまでも泣き止むことの出来ない姉を見ていると、不思議に冷静でいられている自分がいた。
 父の行く先に心当たりはない。
 遺書まで残して去ったのに、親戚や知人を頼って身を寄せるようなことはないように思えたが、念のため叔父には連絡しておくことにする。
 だが携帯を拾い上げてメモリーを辿り始めたものの、途中で指を止めてしまった。
 叔父には随分長い間連絡を取っていない。五年ほど前までは、正月に電話口だけで新年の挨拶を交わす程度の交流はあったが、どういうわけかそういったこともいつの間にか無くなっていた。
 父方は祖父、祖母共に亡くなっていて、連絡出来るのは思い当たるところで父の弟である叔父だけということになる。
 母方の親族は、十三年前に母が家を出ていったきり連絡は皆無だ。記憶では祖母に一度だけ会ったことがあるような気がする。両親が離婚する前に母の出身地である岩手県の山の中に会いに行った微かな思い出がある。
 でもそれっきりで今となっては連絡先すらわからない。
 こうやって思えば、随分疎遠な立場に置かれていた事に気付く。もし父がこのまま帰ってこないようなことになれば、私達二人は完全に孤立することになるかもしれない。……いや、なるんだろう。ご近所で仲良くさせてもらっている人達もたくさんいるが、もちろん頼りすぎるわけにもいかない。
 簡素な遺書一枚で姿を消した父。これから私達が置かれようとしている状況よりも、父が自分の死をわがままに優先させたことをどうやって納得すればいいのかがまだわからなかった。
 叔父の自宅の番号に合わせ発信ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
 家の前の道を軽トラックが通り抜ける。
 着陸態勢に入った飛行機が、近くの空を低空で轟音を立てながら横切る。
 近所の子供達がキャッキャッと笑いながら追いかけっこをしている。
 町は止めていた動きを再び取り戻したように活動を再開し始めたが、それらは普段通りの慣れ親しんだ家族のような音だった。わざとらしく重なってくれたことが、どこかありがたく思えた。
 数回コール音を鳴らしても誰も出ない。今の時刻は夕方の五時を少し過ぎたところ。外は次第に日が落ちていた。
 土曜日も仕事に出ているのかもしれない。
 奥さんも出かけてるんだろうか。子供は確かいなかったと思う。紹介を受けたこともないし、父との間でそんな話題が上ったこともなかった。
 後でもう一度掛けることにしよう。
 取り立てて連絡を急ぐようなところは叔父の家くらいだろう。近所の人達に相談するべきかどうか迷ったが、今はまだ未来亜と二人で自宅にいたほうが良いと思った。
 未来亜は泣き止みはしたものの、一向に顔を上げそうな気配がない。未来亜も未来亜で自分の責任だと重く受け止めているんだろう。
 でもあんただけじゃない。私もこんなことになるなんて思わなかったんだ。何もしてあげることが出来なかったんだ。

 薄暗くなり始めた部屋と共に気持ちを沈めるわけにはいかないという思いと、自然の流れの中で運命的な今の状況にふさわしい雰囲気に身を置いたほうがいいのかという思いが、単調に刻む秒針の音の下で交錯する。
 私は真っ暗になるまで待つことにした。
 ふと、真っ暗になってしまえばいいと思った。
 それは、顔を上げようとしない未来亜に対してのあてつけであるのかもしれなかったし、ただ単に飲み込まれてしまっただけなのかもしれなかった。
作品名:失態失明 作家名:krd.k