失態失明
一
「もしもし……」
ん? ものすごく声が暗い……。だが、姉だ。
「もしもし、どうしたのよ?」
凛亜は電車が通りすぎた直後の代々木駅の改札前で、財布を取り出そうとしたまま固まった。 「……おどろかないでね?」姉の未来亜は慎重になりすぎてるのか、もはや言葉が続きそうな気配がない。凛亜の目は行き場を失うと不本意にも泳ぎ始め、自然とムッとした表情になる。
ちょうど電車が通りすぎたタイミングが耳にもたらす喪失感と、夕方にしては不自然に閑散とした改札口付近と、電灯が点く前の少し薄暗い時間帯らが状況として確認を促すように覆い被さってきた後、蓮亜の頭の中に不吉な脳波が溢れんばかりに噴き出し始めた。
そしてそのまま導かれるように、今から自分に降り掛かるおそらく邪悪であろうニュースはとても重要なことで、とても運命的なことになるんだろうと直感した。
「私は大丈夫だよ……。どうした?」 言い終わると同時に電話の向こう側の世界が崩壊し始める。大地震でも起きたかのように。落雷が直撃でもしたかのように。
ひどい嗚咽と共にぐしゃぐしゃに崩れ落ち、おそらく未来亜はひざまずき、ビリビリと嫌なノイズが耳に障る。
「未来亜ぁ、泣いてたらわかんないじゃん。はっきり言ってよ?」
「お父さんが……。お父さんがね……。遺書残して出ていっちゃった……」
「警察は?」蓮亜は乾いた声で冷静に返したが、向こう側の嗚咽は止まりそうにない。
「警察には連絡したのかって聞いてんだよ!」
「まだ……。これから……」ぜえぜえと吐き出される暴力的な空気音の中で、それらの言葉は辛うじて型取られた。
「連絡出来るか?」
「頑張る……。凛亜ぁ、早く帰ってきて……」
「すぐ帰るから、しっかりして。警察にだけ、お願いだよ」そう言って凛亜は携帯を切った。
街は凛亜が話し終えるのを待っていたかのように、止めていた活動を再び取り戻し、いつもの喧騒を撒き散らし始めた。
集団で歩く専門学校帰りの女の子達の笑い声、電車が通り過ぎる音や後方の道路から聞こえるクラクション、全てがわざとらしくわずらわしく重なった。
凛亜は急いで改札を通り抜け、エスカレーターに乗り、手に持ったままの携帯をもう一度見つめた。
正直言って心当たりはあったし、父の今朝の様子も少し変だった。
バイトに出かける凛亜を玄関で呼び止めて、心配かけて申し訳ないというようなことを口にした。 歯切れが悪く、尻つぼみでフェイドアウトするように押し出された弱々しい言葉は、生気を搾り取られた魂の最後の残りかすのようにも思えた。
不穏な空気に少しだけ嫌な予感はしたが、まさかと思い直し、元気づけてあげられるようにと願いを込めて、大丈夫だよと精一杯の笑顔を手向けた。
父は一ヶ月ほど前、勤めていた会社をリストラされてしまい、しばらくは再就職先を探してはいたものの、極度のストレスからか元々悪くしていた肝臓をさらに悪化させてしまい、食欲が減退し、体調も安定しなくなって、ここひと月の間で顔面は何かただならぬ邪悪な相に豹変し、肉体からは刺激臭を伴う酷い臭いを漂わせ始めた。
男手一つで二人の娘を育て上げてくれた父は幼い頃の私をいつも抱っこしてくれていたが、昔から嗅ぎ慣れた父の臭いは現在のものとは大きくかけ離れてしまい、親子という血縁を持ってしてでも、それは近寄りがたい悪臭だった。
父の体臭はお風呂に入っても食生活を改善しても治まるような気配は一向に感じられなかった。私と未来亜は気にしないように努め、何気ないそぶりで普段通りの生活を送っていたが、父自身が精神的に病んでしまい、人間不信のようなものに陥って自室に籠もるようになり、次第に私達のほうが距離を置かれるような形になってしまった。 そして医者から飲むなと言われていたお酒に溺れ少しの間荒れたりもしたが、父として、人間としての尊厳で感情を抑えたというよりかは、生命力が衰弱してこれから活動を終える星のように、内側に空洞を抱きかかえ自然消滅していくような、見守ることしか出来ないような、独りよがりで心苦しい容体だった。発したい言葉も表したい感情も無いという風で、一人言をぼそぼそと呟いてはどこかへ出かけてしまい、次第に私達の前に姿を現さなくなっていった。
そんな父が久しぶりに姿を見せたのが今朝だった。
父はいつの間にか家の中にいた。
姿を見せなくなって四日ほど経っていたので、さすがにおかしいということになり、昨夜から徹夜で未来亜と相談しながら頭を悩ませていたのだが、朝になるとトイレから水が流れる音がしたので二人で顔を合わせて驚いた。 父は何と声をかけても、何を聞いても「すまん、すまん」と、かすれた声で小さく返答するだけで、そのままフラフラと階段を昇っていき、二階にある自室に入っていった。
ロクに食事も摂ってないのは一目瞭然だったので、未来亜と一緒に急いで豚汁を作った。
今日は土曜日でファミレスのバイトが午前中からの日だったが、衰弱した父の様子を見ていると休むべきかどうかギリギリまで迷った。
でも未来亜は行くように勧めてきた。
確かに、父からの収入を頼りに出来ない今、未来亜の家庭教師のバイトの給料と私の分を足さなければ親子三人が生活していくのはとてもじゃないが無理だった。
迷ってる暇はない。
先行きが不透明だからこそやるべき事はクリアに浮かび上がり、それは高校生の私にでもわかる単純明解なものだった。
洋服を着替えて準備を済ませた後、今日は休みの未来亜に父を見守るようお願いした。
そして二階へと繋がる階段を下から見上げて、正面に突き当たる壁に向かって声をかけた。
いつものいってきますに、職探しは焦らなくても大丈夫だよと付け足したが、父からの返答は何も無かった。
玄関に座ってスニーカーの靴紐を結んでいると、父はいつの間にか背後に立っていた。
私は少し驚いたが、振り返ると同時に特有の悪臭が鼻に突き刺さってきた。
父はそんな私の瞬間の表情を見抜いたのか、後ずさりしながら、心配かけちゃってゴメンなとだけ言って、また力なく階段を上っていった。
弱気で情けない顔。
今となればその表情が父の最後の顔になるかもしれない……。
最後の最後で、父が見せた一番素直な表情……。
なぜ私は不器用な同情なんかしてしまったんだろう。
なぜいつもの私らしく父を怒鳴りつけてあげられなかったんだろう。
なぜ笑い飛ばしたり、悪態ついたりしてあげられなかったんだろう……。
ぱーんという電車の警笛が聞こえたと同時に、曲がっていた背筋が少しだけ正される。大勢の客が降りた後もすぐには電車に乗ることが出来ず、ホームに残ったまま少しの間体が動かなかった。
誰も悪くない。誰も悪くないのに。
車掌さんが笛を吹いたのを聞いてから、ゆっくりと車内に滑り込む。
温和な雰囲気が好きなのに悪いフリとかして、でも料理だけはいつもすごく褒めてくれて……、近所の人達にはすぐに頭を下げて、ジャニーズが嫌いで、でもウチらの友達にはすごく優しくて、若い子の歌を一生懸命覚えて……。