失態失明
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ひんやりとした空気と森独特の湿気が辺りを覆い尽くしている。
誰もいないわけではない。
今、樹海の中には生きている人間が数名いる。
だがそれぞれが近しい場所にいるわけではない。
樹海においてそれぞれは、それぞれの場所から入水し、それぞれのルートを辿り、それぞれの場所で落ち着く。それぞれは老木たちの念によって霧散され、消えていく。
ある男は火をおこして米を炊き、缶詰めを開け、酒を飲み、歌を唄った。思い浮かぶ歌を、余すことなく全て唄った。唄い終わると、次は出会った人間の名前を思い出せるだけ唱え始めた。その人間にまつわるエピソードを織り交ぜながらたっぷりと時間を使って、時折涙を飲み込みながら、くどくどと今生を振り返る。それがルールであるかのように。
ある痩せぎすの男は木にくくったロープを眺めながらもう数時間も動かないでいる。日が沈もうとも、どこかで野犬の遠吠えが響こうとも意に介さずに。三角座りをして、ロープの輪っかに焦点を当て、その中心を揺らぐ空気に不思議な恍惚感を覚えている。
ある中年の男は眠りについている。眠りながら涙を流している。流れ出る涙の筋に小さな虫がたかる。小さな小さな虫達が、涙を啜っている。この男の眠りは恐ろしく深いようだ。当分の間、目覚めそうにないか。小さな虫達は、ガツガツと、一心不乱に涙を啜っている。
ある若い男は、テントを張り、ランプに火を灯し、読書をしている。外国の本のようだ。英語を原文のまま、辞書を片手に読み進めている。傍に置かれたラジオから流れる音楽は樹海によって乱れた電波で時々歪められてしまっている。ポットに淹れてきたホットコーヒーを飲みながら快適に樹海の夜を過ごす。明日の朝には愛車のマウンテンバイクで樹海から引き上げるんだろう。柄の長いサバイバルナイフを手の届く位置に置いているのは、何かに対する用心だろうか。だが、呪いの声さえ聞こえてこなければこの男にはここは必要な空間であるようだ。どこかで屍がぶらさがっていようと、どこかで死者が彷徨っていようと、どこかで死者が歌を唄っていようと、どこかで死者がロープを見つめていようと、どこかで死者が眠っていようと、この男には関係ない。ただ静かに本を読み続ける。