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中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
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ももも太郎異聞 2012

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 ──ああもう、あたしを無茶苦茶にして。
「くっ、かっ」
 かつての房事が脳裏に浮かぶなり老翁はごま塩頭をかきむしった。それがあの笹島のあほ息子と……。ペール爺は、不覚にも前をかちかちに怒張させながら、なおも憤った。どんなに振り切ろうとしても笹島の息子とメールの裸体が絡む絵が脳裏から去らない。忌々しかった。
「女郎蜘蛛や思とったら毒蜘蛛やった」
「こんなことなら」と、ジュスカペールは腰にぶら下げた鎌の柄を握って独りごちた。五分前に唱えた前向きな自分宣言とは正反対である。
「あん時、ほんまに無茶苦茶したったらよかった」
 そのときペール老人は橋の中ほどまで来ていたが、川面をなでる湿った空気に当てられたせいで、急に小便がしたくなった。というのか、じつは家を出たのは厠へ行こうとしていたところを放り出されたのだったと思い出し、南無三宝、我慢ももはやここまでと、あわてて橋の真ん中にある欄干の脇に立ち陰茎をまさぐり出すと、人目も憚らずに川下に向けて放尿を始めたのである。もはや子どもよりも憐れである。不用意な勃起による尿道の狭窄は、驚くほど巨大な水芸のアーチを描き、四間ほど下方をゆく川面にようよう飛沫の先端を届かしめたのだった。
 ──おれはこんな場所でこんな行動をとる人間ではなかったのに。
 自分の行為で心がエスカレートし、自分の心で行為がエスカレートした。悪い方に悪い方に。悲しいことだが、これがペールの現実だった。彼は陰茎をつまむと上下左右にふり、より下品さを演出した。そのたびに、彼の従順なしもべであるアーチは、数秒遅れで鮮やかな変化を見せた。
 そのときである。排尿の完遂とともに涙目になりつつあったペールの視界に入ったのは、川の中ほどを滔滔と流れ行く、ひと抱えほどもある丸い物体だった。なんじゃいあれは、とペールは思ったけれども、もう自分は関わりを持ってはいけないような気がした。拾われることを予期しているこの物体は、いまの自分には持ち上がらないとも考えてみた。
 尿が絶え、腰の回りを整えると、ペールはあたりを見渡した。
 光る川面と朱塗りの欄干、鮮やかな木立、ついで生まれ月の太陽を見上げた。
 次の瞬間、名状しがたい激情が彼を襲い、全身が瘧のようにがくがくと震えた。目も眩むような怒りに全身の血が沸騰しているようだった。ペールはおもむろに腰の鎌の柄をたしかめると踵を反し、いましがた半分渡ってきた橋を駆け戻った。一生に一度の主役が、こんな形で回ってきたのだった。

 九月の空はかんかんに晴れまくっていた。
 吉備津のお白洲は大悪逆人守山ジュスカペールの評定をひと目見ようとする見物人で大賑わいだった。弁当持ちの親子連れ。職権で良い席をせしめた山林組合の幹部。法学生。有休を取って駆けつけた団体職員。医学生。三文文士。弁当屋。やくざ者。弁護士。非番の公務員も多くいた。その他当時考えられるあらゆる階層、職業の人間が黒山の八重垣を作り、御沙汰はまだかと待ちわびていた。
 笹島親子と妻メールを殺害した理由を審問官に聞かれたペールは、顔を上げると目を眇め、噛みながら答えた。
「た、太陽がまぶしかったからざんす」
 その直後、荒縄で後ろ手に縛られたこの爺いは怒り狂った廷吏にどつきまわされたのだった。周囲には群集の投げた礫が無数に飛び交った。廷吏にではなく、ペールめがけて飛んできた石だった。
 守山ジュスカペールは、持ち場の山を守れず杣人の名に泥を塗り、また、仏語で意味するような、年寄りになるまでの人生を全うすることもかなわず、同月二十五日の午後、二十歳に満たないアルバイトの首切り役人の手であっさりとふたつに分裂されたのであった。
 辻で四日間晒されたのち、非人渡しにされたペールの首は葬送も戒名も許されない中、非人事務所の手違いだか手抜きだかが原因でゴミ置き場に放過されていたが、ある月夜の晩に、あの十日月を見上げたときの惚けた顔つきのままこっそりと川に投げ込まれ、そのままどんぶらこどんぶらこと瀬戸内海に向かって流れ下ったのである。首の行方は誰も知らない。

 彼は足元を流れる大きな桃にも、その中で眠る未生のヒーローにも気づかなかった。しかし気づかなかったのは世間も同じで、それぞれの関心はそれぞれ自身にしかない。桃がこの先誰かに拾われたとき……そのときだけが物語になるのだ。

 この世で最悪のももも太郎譚。なにせ主人公の出番がないのである。
(了)
作品名:ももも太郎異聞 2012 作家名:中川 京人