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中川 京人
中川 京人
novelistID. 32501
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ももも太郎異聞 2012

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 何度も営業かそうでないかの確認をされながら酒臭い息をかけられた。明瞭に答えているので内容はわかっているはずなのに、何度も聞き込み、うんうんそうか、などと頷いて得心している容子だった。顔を覗き込む男の巨大な赤ら顔には優越感に由来する紫色が混じっていた。やがて男は前かがみの姿勢をとると、「おっしゃあ」の掛け声とともに立ち上がりざま上半身をひねった。それきり二度と目の前には現れなかった。
 ペールはそんなやりとり自体にも感想はなかった。むしろその場で彼に応えたことは、自分が真性の下戸であり、このような座が求める酒精許容量に遠く達していないことだったのだ。酒が飲めないとはなんと罪深いことか。「下戸の建てたる倉も無し」などとほざいて呵呵大笑する元同僚の酒興を横目に、それでも単なる肉体の問題だと認識していた。ちんまりした酒で業界の将来を憂いて獅子吼する元役員たちを、役者を見るような目で見ていたのだ。
 しかしそのとき彼、守山ジュスカペールは、鍋と酒精の蒸気に喧騒、三味線長唄の充満する満座の只中で、ひとつのか細い声を聞いたのである。
 ──メールがかわいそうだ。
 そうだ、そうとも言う。彼は悟っていた。酒の飲めない体も、人が見下す仕事を止むなしとする状況も、左右の地味な爺いの間の抜けたステロタイプな物言いも、長唄の歌詞も仲居の薀蓄も何もかも、この宴会のすべての要素が、この「メールがかわいそうだ」のひと言に集約され、彼を責め立てているのだ。
 ペールは無言で厠に急ぐふりをして席を立ち、そのまま戻らなかった。そういう子どもじみた振る舞いがさらに信用をなくすのだということに、彼は思いが至らないのである。
 彼は待合茶屋の勝手口からそっと外に出ると、月を見上げた。半開きのドアから漏れてくる三味や手拍子をかすかに聞きながら、十日月に語りかけようとしたが、つまらないからやめにした。この期に及んでも、じつに守山ジュスカペールは自分自身を哀れんでいたのである。
 妻メールに申し訳ないという気持ちは、心の底にあるにはある。ところがそれが素直に維持されることは滅多になく、体表面から外に出るころには、メールへの不満、不信、不足、不安が厚着した天麩羅の衣のようにまとわりつき、珍しく和食膳を食わしているのに、「どれがいちばんおいしかった?」「うんとね、えびのころも」などという馬鹿げた親子の会話が成立するように、ただ単に量の多いものが、同じ理由により我が物顔に跋扈跳梁するのだ。
 どんなときでも何が起きてもそんな調子である。己の不備を隠すために、自らの不如意と不遇を過剰に演出し続けてきたのだ。なんということか。こんなことのために、妻メールは苦しんできたのだ。
 ペールはT字路を左に折れ、やや歩を早めた。川音が聞こえる。
「おれが不幸なわけはない」
 漫画の雲形のフキダシのように、歩きながら唐突にこの爺いは独りごちた。
「すべてがうまくいっている」
 何をいきなり。
 どうせごちゃごちゃ考えているうちに、以前に見聞きした何か都合のいいフレーズが引っかかってきて、ついでに実際に紙に書いたり口に出したりする方がいい、などとあったのを思い出して実行したのだろう。調子こいている男である。
 川に架かる木橋に差し掛かった。
 その後もペールは草履を引き摺りながら、
「不運はそれを嘆きたい者に訪れる」
「夕べの紅顔もあしたには白骨となれり」
 などと半可通なわけのわからない言葉をいくつか口にした。ちょっと違ったかなと訂正してははにかんで見せた。驚くべきことに彼は小さな悦に入っていたのだ。
 ──そうだその調子だ。自分に自信を持て。
 ──その通り。何もかもうまくいっている。
 まったくあきれた話だが、はじめからそういう心積もりならメールの苦労はドンキ並みの八割引にまで抑えられただろう。あばたもえくぼ。ドミノ倒しのように、心が心を動かし、心は言葉を動かし、言葉は体を動かす。いい方向に、いい方向にと進んでいたはずである。
 子はなくても希望は生まれる。
 事実、彼らはかつて両手に抱えきれないほどのものを持っていたのである。
 臭う生ごみなど、ドンと来いだ。
「ペーちゃん、忙しいのにごめんね。集積所から困ったこと言ってきたの」
「どうしたのいったい」
「それがゴミなの。せっかくペーちゃんに出しに行ってもらったのに、回収しないで残っちゃってるみたいなのよ」
「そりゃいけない。ぼくの出し方が悪かったんだよきっと。すぐに行ってくる」
「ごめんね、わたしが出さなきゃいけなかったのに無理言って急がせちゃって。あとで改めてご近所に謝りに行くから。あ、それからついでにお願いしちゃってもいいかなあ。いい? そしたらね、あの笹島さんの息子さんなんだけど……」
 そういう会話もありえた筈である。
 笹島とはじつは、酒の席で営業かと念押ししてきた例の男であって、村役場から出向している土木管理部の次長である。子どもの時分は、十二の年まで九九が言えず、二十歳になっても手前の苗字を『笹鳥』と書くことがあった。図体ばかり大きくて中身は豚の脂身とさほど変わりはない。あのとき『エイギョウ』なのか、としつこく聞いてきたときも、はじめは、名刺の上の『營業』という漢字の読みを聞いているのかと疑ったほどだった。あほではあるが、根っからの我慢強さと人の好さと楽天的な性格で細切れの段差をこつこつ登ってきたのだ。どれもペールには欠けていた性質だった。
 その息子から、この息子というのが親に輪を掛けてなんともならんあほなのだが、どんぶりを返してもらうためには、この笹島の家を訪問しなければならない。橋の上を小股で歩きながら、なんでメールはこんなやつにどんぶりを貸してやったのかと考えるうちに、あ、これは新手の出合い系ではあるまいか、あの餓鬼なんちゅうことさらしよる二十も離れた他人の嫁に、などとメールを案じるよりも、自らの体内で沸々と湧いてくる怒りに悶えていた。嫉妬かどうかは自分ではわからなかった。とにかく焼けるように怒れた。
 川の音が大きい。普段より水嵩が増しているのは、ずっと前に降った大雨の影響がいまになって出ているからだろう。
 容量の小さなペールの炉は、わずかな燃料でもたちまちレッドゾーンに入った。相手の苗字が悪かった。
 ──笹島。おれを見下した男。
 当初はそんなふうに思っていなかったくせに。営業に引け目などなかったくせに。あほは優性遺伝だと嘲笑していたくせに。
 つまるところこの爺さんは、憤怒に酔うための燃料をあちこちから集めてまわっているのである。傷心だ絶望だと嘆くが、もとより自らが勃起せしめた妄想だとは思わないのか、メールの潔白を信じる気持ちにはなれないのか。だいたいが、浮気相手の家にどんぶりを受け取りにやらすはずがないではないか。
 理屈ではない。もはやペールの腐れた性根は、怒りの炎にくべる枯れ木の役割くらいしか使い道がなかったのだ。笹島もどんぶりも出合い系も単なるきっかけに過ぎなかった。
 新婚当時の閨事が否応なく思い出された。ペルシャ系クオーターであるジュスカメールの賞味期限内のナイスバディは、それまで買ったどのおなごよりも反応が凄まじかった。
作品名:ももも太郎異聞 2012 作家名:中川 京人