ライナスの毛布になれるかい?
***
見開いた目に、白い天井が映る。
何やらぼそぼそとした声が絶えず聞こえてくるのが騒々しくて、私は声のする方へ顔を向けた。と、腕の皮膚がわずかな痛みを伴って引き攣れた。皮膚に吸いついていたのは細い管の先にちょこんと付いた電極。体を動かした拍子にそれが外れたようだ。さらに落ち着いて全体を見回すと、見えてきた。自分が簡素な寝台に寝かされていること。右手首を寝台に縫い留める抑制具。全身に巡らされた無数の電極。
出来るだけ、疑念や憤りを抱かないようにした。電極の色や形をつぶさに観察する。慣れた風に、感情を殺した。
目を瞑る。目頭がツンと痛むまで強く。
息を吐いて、再度視線を滑らせる。
(―――お日さまの、光の色――――)
色。色だ。無心に、機械が反応を拾わないように強い感情を、心を隠せ。
けれどそれも徒労に終わったようだ。
だって、あの色を見て何も感じないわけがない。
1メートルほど先で白衣の男が数人、同じような寝台を取り囲んでいる。
こちらからならば白い壁のように見える。手に手に持つのは思い思いの道具たち。グラフ用紙の罫線と、物々しい機械が示す心音の数値が目に付いた。
その白衣の壁の隙間からほんのすこしだけ覗いた、淡い栗色。見慣れた栗色。それだけに、私の視線は繋ぎとめられた。太陽のような幸せを願った、あの。
―――――君が気にいると思ったんだ
ぴ、ぴ、短絡的な、支配の音。飛び交う言葉は聞いたことのない取っつき辛いものばかり。そこに彼の名前はついぞ混じることはなく。
(………)
皮膚が小さく鋭く痛みを上げた。はらはらと床に落ちる電極も厭わず、残る左腕を、白い光りの先へと伸ばし――――
にわかに、手首をとられた。たしなめるような優しい手つきで。
「気分は?」
男が問う。
背が高く和らいだ目元をもつ男の造作は整っていると言えなくもなかったが、見慣れている分特別な感慨は抱かない。左の頬に残る十字のケロイド、ただそれだけが印象をもつ。
翠(スイ)。
爛れた皮膚を引き攣らせないようにと、この男も実に完成された笑い方をする。
なおも手首を掴む力――けして強いとは言えないものだが――を緩めようとはしないスイを見て、悟った。
私は今、命を賭けたのだと。
「今日はもう休むといい。≪お仕事≫は終わったよ」
残りの電極を丁寧に外しながら、スイが言った。
その笑顔に対しては無言でうなずくに留めた。彼ではないからだ。そして、夢は終わった。
私の反応に満足そうに笑んだスイは、「あ、そうそう」と間の抜けた呟きを落とした。
「その前にもうひとつ。今日はどこに行っていたのかな?」
喉までせり上がっていた言葉達が、呑みこまれ奈落へ落ちていくのを感じていた。こうした質問は幾度となく繰り返されていた。しかし私は今日に限って、問いと答えの間に小さな反抗を押し込んだ。
「見ていたのではないの」
もちろん。
スイは笑った。
「形式だよ。君のための区切りのようなもの」
彼の言葉には取りつく島がない。ひらりひらりと夢見がちな言葉遊びをしている。そういえば、夢見がちな名だと誰かが言った。魔法使いの出てくる物語の名前。あの子の名前。
可哀想な子どもなのだ。
心音を示す短絡的な音が世界を支配する。この静かな空間で音を立てることは、とんでもなく醜い罪であるような気がした。
こうして私は、観念する。
「イタリア」
吐き出すまでが重い言葉だった。何故だかは知らない。
「ああ、あの写真集、気に入ってくれたんだねぇ」
スイが柏手を打つ。
刷り込み。
当たり前のように、彼の世界は誰かの世界だ。それも誰かにとっては取るに足らない、残りかすのような幻想。糧にして、生きている。その糧が私を生かす。
「それで? 何をしたの? 二人で」
左腕を支えにして頬杖をつきながら、スイが尋ねてくる。ゆらゆらと動く視線が不安を誘う。
「―――――海に浮かんだ家に『住んで』、市街で買い物、坂道の途中で、――――」
ぐ、ブレーキを掛けたようだった。
二の句が継げない。
一番の印象事を口に出来なかった。思わず手元を見るが、握ったままだったペンダントの包みは夢の中の出来事で、この手にあるはずもない。しかし、その視線の動きはしっかりとスイに捉えられてしまった。
スイは、怒らない。他の白服のように怒ろうとしない。「いいよ」と優しく言うと、人体を安置する目的しか無いベッドの上に白衣の即席ブランケットを掛けてくれる。
「眠ることも大事な区切りだよ」
区切って区切って。私はどうなるのだろう。輪切りになって、みっともない格好で彼に愛されなくなるのだろうか。いいえ違うわ。すべては彼に愛されるための、いえこれも違う、彼「が」愛されるための。知らない内にいったい幾つの夜を区切ってきたのだろう。
これで生きていけるはずだった。何を言ってるの、「である」のよ。今だってそう。区切れば、また明日の私は健全に遊び回っているの。
スイは言った。
「また、ね」
今日の私を殺す前に、そう言った。
作品名:ライナスの毛布になれるかい? 作家名:ほむら