あいなきあした
それもたかだかはじめて1ヶ月くらいの事で、その成り行きには正直面食らっていた。
小麦粉と食材を整然と置いていた2階の倉庫には、この店に似つかわない高級な酒が雑然と積まれるようになっていた。
「アキラ、お前最近どうかしてるぞ!ヒロミにペース合わせてたらやっていけんと、お前が言ったんだろ!」
今月に入って何度目かわからないくらいスープを駄目にしたアキラに、俺は大人げなく怒号を上げていた…。
「あとは俺がやるから!」
軽く肩を押しのけると、俺より長身のアキラが腰が砕けたように崩れ落ちる。
ヒロミがいうところの「ボクネンジン」の俺もさすがにこれはただ事ではないと悟った。
「酔っただけじゃないな!どうしたんだ!アキラ!」
無駄だと分かっても肩を揺すって正気に戻さんとする。
アキラは突然、怯えるように震えだし、新調したばかりのスマートフォンでどこかに電話をかける…。
「…足りないっっすよ。来週まで…。」
とっさに電話を取って耳に当てる。
「いい感じだねえ。きちんとご奉仕してくれれば、いくらでもあげるさ。」
聞き慣れたヒロミの蠱惑的な声色…。
食わせ者だとは思っていたが、こいつは俺が想定していた以上の怪物だった。
「待ってろ!」
反射的に叫んで、俺はアキラを置き去りにしたまま、「本日休業」の札だけを下げて、有らん力を振り絞って部屋へと走った。
こんな時に限って、CDショップのオヤジがマニアックな新譜が入荷したときのニタニタした表情で俺に微笑んでいたが、そのオヤジを振り切って二階へと駆け上がる!
部屋にはすでに人影はなく、そこには使ったばかりの注射器と、テーブルの上にいつもの恐ろしい程の清冽さをたたえた書で、
「破」
と一文字大きく書き貫かれていた…。
俺は今日も変わらず客をさばくための仕込みに追われる…。
あの女の騒ぎで評判を落とした客も数を持ち直し、アキラがいた頃は本当に良かったと、スープの面倒を見ながら、製麺機で麺を圧延して太めの切刃で出来上がった一食、一食分を木箱に詰めていく…。
「ケイジさん…すいませんでした…。」
なんてタイミングの悪さだ…俺をそう呼ぶのはアキラ、あいつしかいない。
後ろには小動物のように震えて見せるヒロミ。いけしゃあしゃあと!
一旦火を落とし、製麺機の電源も切って、カウンターごしの二人のもとへと向かう。
「腕、出せよ。」
アキラの袖を強引にまくると、注射痕はなかったが、ヒロミのか細い腕には、まだ治り切っていない黒点が有った…。
「!」
俺は有らん限りの力で、アキラに拳を突き立てた!
「1発でかんべんしてやる。」
しなやかな長身は二つに折れ、黙って素直な瞳でこっちを見返してくる。
俺はこいつの澄み切った性根が好きだ。
アキラにロックをやらせておくのはもったいない…いや!屈折率のないそのまっすぐさがロックなのか!
その後ろでアキラを思いやるように震えるヒロミ…。この女は、男達の上澄みを吸っては跳ね、答のないゴールを目指し、老いさらばえていくのだろう…。
俺は黙って昨日の売上げの全額を銀行の封筒に包み。黙ってアキラの胸元に差し入れる。
「明日からの1ヶ月分だ…。」
毅然と振る舞う俺に怯えるヒロミを睨み付け、俺は2階に準備してあった暖簾と白墨をカウンターに並べて、筆をとらせる。
「書け。」
「なんて?」
ひらがなで『あした』だ。
うながすとヒロミはきりりと身を引き締め、矢を射貫くように筆を走らせていく。
永遠の如き数十秒は俺でなくともあたりの者たちを凍り付かせる緊張感に充ち満ちていた。
なぜ神はこの天賦の才に光を当てぬのか!
なぜこの心にこの書が宿るのか!
まったく皮肉にも程が過ぎる。まったくだ。
何度思ったか分からない悔恨にも似た気持ちに満たされると、カウンターに置きっぱなしだった携帯が着信を告げる。
俺が立ち上がるまでもなく、ヒロミがいたずらに取り上げて耳にあてがう。
「もしもしー」
けだるそうなゆるみきった声で答えると、
「あー女の人だぁー。もしかして、サンタさんの奥さん?家おとうさん、死んじゃったの。うらやましいなぁー。」
「そうよ」
聞き漏れる俺の娘の声にこたえ、母性を溢れさせた柔らかい響きで答えた。
「えーとね、サンタさんにプレゼント、ありがとうって言っといてね。ママに見つかると取り上げられちゃうから、ちゃんと見つからないようにするから。じゃあね。バイバーイ。」
「あんた、娘いたんだ?サンタさんプレゼントありがとうってさ。」
「聞こえてる…」
また面倒そうな声色に戻ってヒロミはこちらに携帯を投げた…。
ヒロミ、アキラ、じいさん…みんなみんな、さよならだ…
俺の眼の前には、クリスマスイブのくせに、クリスマスイブだっていうのに、雪になりゃあいいのに、みぞれ交じりで、ぐしゃぐしゃの泥まみれで、眼の前が見えやしねえ。
まったく台無しだ。
今日より『あした』、いいラーメンが作れますように…『あした』よりあさって、俺もじいさんも納得できる味であるように、その願いの全てが込められた暖簾が…
じいさんが味見に来なくなって、もう1週間が経った…。