アガペー 〜あるAV女優へ〜 (前編)
すると、暗闇の中で勇十赤の青白い手が動き始める。それは尾を引くようにスーッと持ち上げられ、こちらの動きを制するようにゆっくりと左右に振られた。
小さな溜め息が出る。
飲みかけの缶コーヒーを口にする。
そして大きな伸びを一つする。
あの奇妙な暗闇の中、あまりにも無抵抗な人間が一人で瞑想に耽るという状況は少々不安な気持ちにさせられる。
帰りのサインが出るまでは様子を見守っていたほうがよさそうだ。
通行人の数は相変わらず少なく、たまに通りかかっても海側の歩道ではなく道路を挟んだ反対側の歩道を歩いていた。
外はだいぶ寒くなっているに違いない。車の中まで冷気が染み込んできた。
エンジンをかけて暖めようかとも思ったが、やはり彼の心境に余計な波風を立てるべきではない。
こういう判断は彼の目的を多少なりとも汲み取ることが出来れば、やはりそうしたほうが良いという結論に至る。
いずれにせよ、まだまだ待機は続きそうだ。
海に目を向けてみる。
穏やかな波の音と漆黒の海面。
この車から波打ち際までは砂浜を挟んで五十メートルくらいといったところか。
不気味に揺らいでいるであろう海面もここからは細かく観察することは出来ない。
幸いにも今夜の天気は穏やかで強風が吹き荒れそうな気配も今のところは感じられない。
幸いにも全てが穏やかで、良好で、退屈だ。
奇妙なあれ以外は。
作品名:アガペー 〜あるAV女優へ〜 (前編) 作家名:krd.k