西野氏
荒絵
1
西野は佐川透あてに手紙を書いていた。佐川は西野の年来の友人である。
「……先日はお招きいただきありがとうございました。佐川君の知的刺激にあふれた話を聞けてとても楽しかったです……私はというと、最近は記号論に興味を持ち始め、記号論の観点から詩学を構築できないかとあれこれ思案しています……」
西野は書き終えてから、もう一度文章を読み直した。すると彼には、その手紙を自分が書いたようにはとても思えなかった。
彼に佐川透などという友人はいない。そんな友人に招かれたこともない。誰か別の人格が書いたとしか思えないような断片が随所にあった。
2
西野が朝起きると、ひどく体がだるかった。さらに咽喉がひりひりするので、彼は自分が風邪をひいたことを確信した。勤務先に電話を入れて欠勤の旨つたえると、彼は時間を見計らって病院へと向かった。
西野が診察室に入ると、しばらくして患者が入ってきた。患者は体がだるく、さらに咽喉が痛いとのことだった。西野は患者の咽喉の炎症を確かめ、呼吸音に異常がないことを確かめて、患者に薬を処方した。この手の作業は今までに幾度となく繰り返してきたことだった。
西野は病院から帰宅してすぐに、医者に処方された薬を呑んだ。あいかわらず体はだるい。携帯にメールが届いたので見てみると上司からだったので、本文は後で読もうと思った。西野は患者の咽喉の色をありありと思い出すことができる。
3
西野は休日に恋人の佐藤葉子とデートする約束をした。
約束の日、葉子は待ち合わせ場所で西野を待っていたが、いつまで経っても彼は来ない。5・6回電話をかけたが彼は一度も出なかった。葉子は腹を立てて帰ってしまった。
帰宅した後、西野はその日の出来事を反芻した。久しぶりのデートは本当に楽しかった。昼食での会話や、映画館で隣に座ったときの葉子の気配などを思い返していた。
ふと携帯を見ると、葉子からの着信がデートした時間帯に5・6件はいっていた。デート中葉子は電話を一度もかけなかったから、西野は不思議に思った。西野は葉子に電話をかけてみた。