立ち読み版 白い猫の追憶
白い猫の追憶
1 プロローグ
「らっしゃい!」
店内に響く威勢のいい声。カチャカチャとグラスの音をたてて、従業員がムササビの様に駆け回っている。
空調は効いているのだろうかと思うほどの焼き鳥とたばこの煙。あちこちから聞こえる賑やかな談笑と乾杯のかけ声。
クリスマスイブ、「東亜引っ越しセンター」の忘年会は東京・赤羽のそんな居酒屋で開かれていた。
良くもまあ、こんな暮れも押し迫ってから予約が取れたものだと思うほどだ。だが、これは十年も前から判で押したように、この日に忘年会を催してきた「東亜引っ越しセンター」だからこそだ。
そして忘年会も、社長のこの言葉とともに、判で押したように始まる。
「来年の事を言うと、鬼が笑うと言われそうだが、来年の各人の抱負を聞かせてもらいたい」
座敷に座った男ばかりの顔ぶれ。それを見回す、いかにも団塊の世代といった感じの社長を含めて九人。これで全員だ。
阿南教親(あなん のりちか)はふう、と肩をすくめ、隣に座る半田と目をあわせた。 社長の右隣から全員が順次、あたりさわりのないことを誓わされるのだが、酒が入れば誰も覚えていないのだから、あまり意味のないことではある。
「東亜引っ越しセンター」の従業員らはそろいもそろって、つぶれるまで飲むほどの酒好きが多く、例年、大宴会になるのが常だ。
ここできたえられたおかげで、阿南もずいぶん酒に強くなった。
一人目のスピーチが終わった頃だろうか。予約の団体が到着したらしく、隣の座敷がざわつきだした。その団体は東亜引っ越しセンターとは対照的に女性が八人で、男性は四十代半ばくらいのボスらしい上司と最年少らしい青年の計十人だ。
「おい、連中、出版社だってさ。なんか、面白そうだぜ」
がっつりと首に腕を回してきた、同僚の半田にうながされ、目をやる。
その一行との間には衝立があるだけで、隔てる襖は開け放たれて、会話はお互いに筒抜けの状態だ。
社長の左隣に座った阿南と半田には、しばらく順番は回って来そうにない。
手持ちぶさたなのを良いことに、他社の忘年会の様子をチラ見しながら、聞き耳を立ててみることにした。
「エキセントリック浪漫社の方ですね。ようこそいらっしゃいました」
店員がおしぼりとおてもとを持って彼らの前に進み出ると、その青年はすっと立ち上がり、かいがいしくそれらを配り始めた。
「面白いって、どこがだよ」
「いいから、聞いててみろって」
悪ガキのように目を輝かせる半田に、阿南は口を尖らせる。
「ハルヒコ、編集長に灰皿」
「ハルヒコ、こっち、おしぼりないわよ」
「栓抜きは? ハルヒコ」
ハルヒコと呼ばれている彼は新入社員なのか、小姑みたいな女性たちにもイヤな顔一つせず、機敏に動きまわる。
「こら、ちゃんと市ノ瀬って言う、りっぱな名字があるんだ。そう呼びなさい。なあ、市ノ瀬」
フィルムスターのような華麗さと、大人の渋さとが同居したような編集長が、小姑たちを優しくたしなめている。こう言うのをナイスミドルと言うのだろう。
「編集長、あんまりたばこ、だめですよ」
灰皿を渡しながら、青年はサラリとあしらう。その言葉に、彼の編集長を気遣う気持ちが伝わってくるようだ。
「ほら、あのコ、きれいだろ?」
半田は微かに緊張が感じられる声で、こう告げてきた。遠慮がちに指をさすという中途半端な仕草が滑稽だ。
「ど、どのコ?」
そう言うことは早く言えとばかり、阿南は目を皿のようにして捜してみる。だが、皆、そこそこの器量ではあっても、ずば抜けた美人とはいいがたい。
「あのコだよ。すっげえ、きれい」
さらに相好を崩した半田が熱っぽく語るのは、市ノ瀬と言う青年の事だったのだ。
ゆるいウェーブのかかった黒髪。すっと通った鼻筋。なるほど、そういわれてみれば美しい。
着慣れているのだろう、スーツは体の一部のようにしっくりなじみ、シックなネクタイはいっそう彼の若さをひきたてている。
まっすぐに青年を見つめながら、語尾まできっぱりと言いはなつ半田に、つい眉根に皺を寄せてしまう。あまりにも突飛で、まともに取り合えない発言だったからだ。
「半田、おまえ、まさか……」
「ち、違うって。俺は子供だっているし。それに、あのコ、もう決まった男がいるな。絶対。俺の第六感」
彼が結婚するまでの素行は知り尽くしている。ホモでない事は証明済みだ。
半田はカンの鋭いところがあり、それをほとんどはずしたことがなかったが、阿南にとってはそんな事はどうでもいい事だった。
ギリシア神話から抜け出てきたような美少年と、性格が悪く器量も難のある女、どちらかを選べと言われたら迷うことなく自分は後者を選ぶだろう。
顔なんて部屋を暗くすればわからないし、セックスに性格なんか必要ないのだから。 「さて、来年、三十回を迎える『エキセントリック新人賞』だが、新たに取り入れたシステムがあるのでこの場を借りて伝えておこうと思う」
全員が席に着いたところで、おもむろに口を開いた編集長に、女性達は信者のようにうなずいている。
「エキセントリック浪漫社」は東亜引越センターから徒歩で十五分ほどのところにある、恋愛小説の出版・販売を事業とする出版社だ。
不況と言われて久しい出版業界にありながら、確実に売り上げを伸ばしている会社だと言うことは、阿南も聞いたことがある。韓流ドラマでもそうだったが、女性モノは不況に影響されにくいと言うことは業界でも定説だ。
「まず、市ノ瀬には今回から下読みでなく、選考委員として参加してもらおうと思っている」
「えっ」
市ノ瀬青年は顔を紅潮させ、そわそわと歓喜の表情を隠せない。どうやら、新人の彼に重要な仕事が与えられたらしい。
「みんなも、市ノ瀬をパシリとしてでなく、一編集者として独り立ちできるように育ててやってくれ」
「はあい」
編集長には従順なようで、女性編集者たちは声をそろえる。
「五人が長編、四人が短編を担当して、各人が一作品を選出すると言うのが一次選考だ。この九作品のうちから、二次選考として長編と短編、それぞれ一作品が新人賞に推挙されるというわけだ。市ノ瀬には短編の初投稿のみを任せようと思う」
「は、はい……」
小躍りしたいのをこらえている……市ノ瀬青年はまさに、そんな風に見えた。
「ここまでは例年の選考方法とほぼ同じだ。今年は編集者と、新人賞候補とが二人一組のタッグを組んで、賞取りレースをする。自分たちのアドバイスで原稿を推敲させ、最終審査である二次選考に挑戦してもらおう。個々の担当としての指導力を見せるのにも、いい機会というわけだ」
「仲間うちで最終審査をすることになりますが……」
ベテランらしい一人のそんな質問には、「長編担当が短編を、短編を担当した者は長編を審査する……」と言う名案で、編集長はあっさり解決した。確かにそれなら公平だ。
「僕も進捗状況は時々チェックするつもりだ。特に、市ノ瀬はわからないところがあったら、何でも相談しなさい」
「はいっ!」
一同、キャッと顔を見合わせ、目を輝かせる。
1 プロローグ
「らっしゃい!」
店内に響く威勢のいい声。カチャカチャとグラスの音をたてて、従業員がムササビの様に駆け回っている。
空調は効いているのだろうかと思うほどの焼き鳥とたばこの煙。あちこちから聞こえる賑やかな談笑と乾杯のかけ声。
クリスマスイブ、「東亜引っ越しセンター」の忘年会は東京・赤羽のそんな居酒屋で開かれていた。
良くもまあ、こんな暮れも押し迫ってから予約が取れたものだと思うほどだ。だが、これは十年も前から判で押したように、この日に忘年会を催してきた「東亜引っ越しセンター」だからこそだ。
そして忘年会も、社長のこの言葉とともに、判で押したように始まる。
「来年の事を言うと、鬼が笑うと言われそうだが、来年の各人の抱負を聞かせてもらいたい」
座敷に座った男ばかりの顔ぶれ。それを見回す、いかにも団塊の世代といった感じの社長を含めて九人。これで全員だ。
阿南教親(あなん のりちか)はふう、と肩をすくめ、隣に座る半田と目をあわせた。 社長の右隣から全員が順次、あたりさわりのないことを誓わされるのだが、酒が入れば誰も覚えていないのだから、あまり意味のないことではある。
「東亜引っ越しセンター」の従業員らはそろいもそろって、つぶれるまで飲むほどの酒好きが多く、例年、大宴会になるのが常だ。
ここできたえられたおかげで、阿南もずいぶん酒に強くなった。
一人目のスピーチが終わった頃だろうか。予約の団体が到着したらしく、隣の座敷がざわつきだした。その団体は東亜引っ越しセンターとは対照的に女性が八人で、男性は四十代半ばくらいのボスらしい上司と最年少らしい青年の計十人だ。
「おい、連中、出版社だってさ。なんか、面白そうだぜ」
がっつりと首に腕を回してきた、同僚の半田にうながされ、目をやる。
その一行との間には衝立があるだけで、隔てる襖は開け放たれて、会話はお互いに筒抜けの状態だ。
社長の左隣に座った阿南と半田には、しばらく順番は回って来そうにない。
手持ちぶさたなのを良いことに、他社の忘年会の様子をチラ見しながら、聞き耳を立ててみることにした。
「エキセントリック浪漫社の方ですね。ようこそいらっしゃいました」
店員がおしぼりとおてもとを持って彼らの前に進み出ると、その青年はすっと立ち上がり、かいがいしくそれらを配り始めた。
「面白いって、どこがだよ」
「いいから、聞いててみろって」
悪ガキのように目を輝かせる半田に、阿南は口を尖らせる。
「ハルヒコ、編集長に灰皿」
「ハルヒコ、こっち、おしぼりないわよ」
「栓抜きは? ハルヒコ」
ハルヒコと呼ばれている彼は新入社員なのか、小姑みたいな女性たちにもイヤな顔一つせず、機敏に動きまわる。
「こら、ちゃんと市ノ瀬って言う、りっぱな名字があるんだ。そう呼びなさい。なあ、市ノ瀬」
フィルムスターのような華麗さと、大人の渋さとが同居したような編集長が、小姑たちを優しくたしなめている。こう言うのをナイスミドルと言うのだろう。
「編集長、あんまりたばこ、だめですよ」
灰皿を渡しながら、青年はサラリとあしらう。その言葉に、彼の編集長を気遣う気持ちが伝わってくるようだ。
「ほら、あのコ、きれいだろ?」
半田は微かに緊張が感じられる声で、こう告げてきた。遠慮がちに指をさすという中途半端な仕草が滑稽だ。
「ど、どのコ?」
そう言うことは早く言えとばかり、阿南は目を皿のようにして捜してみる。だが、皆、そこそこの器量ではあっても、ずば抜けた美人とはいいがたい。
「あのコだよ。すっげえ、きれい」
さらに相好を崩した半田が熱っぽく語るのは、市ノ瀬と言う青年の事だったのだ。
ゆるいウェーブのかかった黒髪。すっと通った鼻筋。なるほど、そういわれてみれば美しい。
着慣れているのだろう、スーツは体の一部のようにしっくりなじみ、シックなネクタイはいっそう彼の若さをひきたてている。
まっすぐに青年を見つめながら、語尾まできっぱりと言いはなつ半田に、つい眉根に皺を寄せてしまう。あまりにも突飛で、まともに取り合えない発言だったからだ。
「半田、おまえ、まさか……」
「ち、違うって。俺は子供だっているし。それに、あのコ、もう決まった男がいるな。絶対。俺の第六感」
彼が結婚するまでの素行は知り尽くしている。ホモでない事は証明済みだ。
半田はカンの鋭いところがあり、それをほとんどはずしたことがなかったが、阿南にとってはそんな事はどうでもいい事だった。
ギリシア神話から抜け出てきたような美少年と、性格が悪く器量も難のある女、どちらかを選べと言われたら迷うことなく自分は後者を選ぶだろう。
顔なんて部屋を暗くすればわからないし、セックスに性格なんか必要ないのだから。 「さて、来年、三十回を迎える『エキセントリック新人賞』だが、新たに取り入れたシステムがあるのでこの場を借りて伝えておこうと思う」
全員が席に着いたところで、おもむろに口を開いた編集長に、女性達は信者のようにうなずいている。
「エキセントリック浪漫社」は東亜引越センターから徒歩で十五分ほどのところにある、恋愛小説の出版・販売を事業とする出版社だ。
不況と言われて久しい出版業界にありながら、確実に売り上げを伸ばしている会社だと言うことは、阿南も聞いたことがある。韓流ドラマでもそうだったが、女性モノは不況に影響されにくいと言うことは業界でも定説だ。
「まず、市ノ瀬には今回から下読みでなく、選考委員として参加してもらおうと思っている」
「えっ」
市ノ瀬青年は顔を紅潮させ、そわそわと歓喜の表情を隠せない。どうやら、新人の彼に重要な仕事が与えられたらしい。
「みんなも、市ノ瀬をパシリとしてでなく、一編集者として独り立ちできるように育ててやってくれ」
「はあい」
編集長には従順なようで、女性編集者たちは声をそろえる。
「五人が長編、四人が短編を担当して、各人が一作品を選出すると言うのが一次選考だ。この九作品のうちから、二次選考として長編と短編、それぞれ一作品が新人賞に推挙されるというわけだ。市ノ瀬には短編の初投稿のみを任せようと思う」
「は、はい……」
小躍りしたいのをこらえている……市ノ瀬青年はまさに、そんな風に見えた。
「ここまでは例年の選考方法とほぼ同じだ。今年は編集者と、新人賞候補とが二人一組のタッグを組んで、賞取りレースをする。自分たちのアドバイスで原稿を推敲させ、最終審査である二次選考に挑戦してもらおう。個々の担当としての指導力を見せるのにも、いい機会というわけだ」
「仲間うちで最終審査をすることになりますが……」
ベテランらしい一人のそんな質問には、「長編担当が短編を、短編を担当した者は長編を審査する……」と言う名案で、編集長はあっさり解決した。確かにそれなら公平だ。
「僕も進捗状況は時々チェックするつもりだ。特に、市ノ瀬はわからないところがあったら、何でも相談しなさい」
「はいっ!」
一同、キャッと顔を見合わせ、目を輝かせる。
作品名:立ち読み版 白い猫の追憶 作家名:松橋オリザ