読み違え&萌え心を揺さぶるシリィズ
萌え心を揺さぶる友への言葉・その4
私の心をかき乱す罪な人。その方の名は《友情》…(ご心配なく、作者は正気)
久しぶりに『萌え心〜友への言葉』シリィズをやってみようと思ふ。
数年間、積ん読していたアベル・ボナールの『友情論』を読んだ。悶死した。
本書を読んでつくづく感じたのは《友情=男性の特権》ということだ。《同性間の友情》を語っていながら、一行として女性同士のそれに読めない。当てはまらないと云いかえてもいい。
女性間にも友情は存在するのに《ブロマンス》に相当するジャンルは存在しない。この先、生まれそうな気配もない。そして《ボーイズラブ》に次ぐ新興勢力《ブロマンス》の熱烈な支持層はもっぱら女性である。
ならば、逆に問うてみたい。男性諸君、女性の友情物語を読んでみたいとお思いか? あるいは《ブロマンス》の小説や漫画を読んで、同性として萌えは得られるか?
一方で《ガールズラブ》もとい《百合》ジャンルには、根強い女性ファンがいる。つまり、友情を飛び越えて恋愛なのである。
不思議なもので一部の女性は、というか私は、明らかに恋愛要素ゼロの物語であっても、主役が男同士というだけで、彼らの言動に「こいつらアヤシイ…」レッテルを貼りつけてしまう。ひどいときには、書かれている科白を言ってもいない科白にねつ造し「こいつらヤバすぎ!」と萌えている(ヤバいのはおまえだ、という話)。
その物語が正統派や王道系であれば、いよいよムキになって「余の眼はごまかせんぞぉぉぉ」と、あら探しならぬ萌え探しに身をやつす。「いや、そういうつもりで書いてないからね、こっちは」という作者様の困惑もどこ吹く風、迷惑極まりない読者へと日々進化(退化?)している。
いったい何をきっかけに、かような特技(珍技)が身についてしまったのか。
少なくとも20年前までは、男同士の友情モノを読んでいても、さりげない仕草を深読みしたり、なんでもない科白を殺し文句に脳内変換したりすることはなかったのだが…。
ではスタート。
***
◇友人同士は完全な平等のうちに生きる。
この平等は、まず第一に、彼らが会ったときに
社会上のあらゆる相違を忘れるという事実から生まれる。
◇友情にもひと目惚れはある。
だが、それをうち明けることはゆるされていないし、
最初から感じていた尊敬や共感をうち明けるためには、
時として、長いあいだ待たなければならないことがある。
◇友情の場合のつつましさには、恋愛の場合のはじらい以上の魅力がある。
なぜなら、
はじらいの消える時は来ても、つつしみはけっしてなくならないから。
◇すべてを忘れる陶酔の中にいるのが恋人であるが、
すべてを識る歓喜の中にいるのが友人である。
◇恋愛は金ピカ物を必要とする。
それは金メッキの小箱の中に、その鉛や銅を入れる。
友情は、銀の小箱の中に金を入れる。
◇恋愛と友情にはオペラと室内楽ほどの相違がある。
◇恋愛は人をより強くすると同時により弱くする。
友情は人をより強くするだけ。
◇恋愛はほんとうのことを聞かされて滅びるかもしれない。
友情が嘘をつかれて滅びるように。
◇今もって存続している最後の騎士道、それは友情だ。
◇恋愛の場合は、信じてもらいたいし、
友情の場合は、見抜いてもらいたい。
――アベル・ボナール
作品名:読み違え&萌え心を揺さぶるシリィズ 作家名:夏生由貴