井蛙は狂骨の為に歌う
井蛙は狂骨の為に歌う
カエルは枯れ井戸の底で青空を眺めていた。
枯れ井戸といっても多少の水はある。だが、人が使えるほどの水の量はない。井戸底の石が水面から頭を出していることからも、その水量は窺い知ることができるだろう。
そして、その水面から頭を出しているのは何も石だけではなかった。
『天気、いいですね』
カエルは、石の上でそう鳴いた。
『その割りに、ここはいつでもじめじめしているけどな』
しゃれこうべは、井戸の壁に寄り掛かりからからと鳴いた。
カエルはただのアマガエルで、しゃれこうべは井戸の底にいるのだからと、自分は狂骨だと自称している。
『まあ、仕方ありませんよ。だって、井戸の底ですよ。本当なら水が懇々と湧き出ている筈なのですから』
『だけどさ、少しは過ごしやすくなんねぇかなって思うわけよ』
『私にとっては中々に過ごしやすいのですよ』
そりゃぁ、カエルだからな。そう、狂骨はからから笑う。
『年中水位も安定しているし、水も淀んでたり腐ってたりはしないので』
確かに、微かだが水の流れはある。それに、時折雨も降るので、水が悪くなることはあまりない。
そりゃぁ、一時期はかなり腐っていたが、それも昔の話だ。今じゃ綺麗で透き通るような水が湧き出てはどこかに流れていっている。
はてさて、それはいつの話だったか。狂骨は考える。考えたところで、既に自分の頭からは脳みそが流れ出ているので、考えようにも考えがまとまらない。
『私がここに落ちてきた時には、既にいましたよね?』
『はてさて、何年前の話だか……』
死語の記憶は抜け落ち、生前の記憶も磨耗する。あるのは情念ぐらいだ。魂と言ってもいい。とにかく、自分が何故ここに落ちてきたのか、思い出せない狂骨だった。
『まだここで冬眠をしていないので、冬は越していないと思います』
『そーいえばお前さん、どうすんだよ。冬も近いぞ?』
『ここなら落ち葉もありますし、多分何とかなります。それに、冬を越せないで死んでしまう覚悟ぐらい、してますよ』
そうなると、このカエルも自分の仲間入りしてしまうということだ。まあ、覚悟していると言っているので、それもいいのだろう。自分が決めることではないと、狂骨はからから唸る。
しかし、このカエルとも長い付き合いになる。と言っても、先ほどから言っているように脳みそはなくなっているので客観的に判断する能力はない。ただ何となくそう思うだけだ。その半年にもなる同居生活ゆえに、こうやって会話するぐらいには気心の知れた仲になっているのだ。
カエルは随分ここにいるが、餌の類には困っていないらしい。井戸の中には木の葉が落ちてきて、その落葉が腐って水草やコケの栄養となる。そしてそのコケを食べる虫がいて、そしてその虫を食べるカエルがいる。その中で、自分だけは飲まず食わずでこうやって井戸の底にずっといる。そのことに疑問を覚えないわけではないが、そういうものだと理解もしている。
ところで、自分がここにいる理由とはなんだっただろうか。考えたところで脳みそがないのだから、答えが出るわけではないのに、ひたすら哲学する。半年振りに、狂骨は趣味の哲学に没頭する。
いや、哲学するしか楽しみがなかったのかもしれない。例え考えたところで、数秒後には頭の中から考えが零れ落ちてしまうにしても、狂骨は考えざるを得なかった。考えるだけが、ここでの楽しみだったからだ。
だったら今は?
『狂骨さん、日差しが入ってきましたね』
そうだ、カエルがいた。最近哲学に耽ることがなかったのは、このカエルが原因だったか。
『ああ、暖かいな……』
と言っても、本当に暖かさを感じているわけではない。ただ、日差しが入ってきたという事実が、自分に暖かさという幻覚を感じさせているだけだ。
それでも、ああ、これは暖かいな。例え忘れてしまうのだとしても、この幻覚は忘れたくないと思う。
しかし、その幻覚も数時間と持たなかった。何故なら、太陽が分厚い雲に飲み込まれてしまったからだ。
『狂骨さん、雨ですね』
『こりゃ、長く続きそうだな』
雨は長く続いた。井戸の中の水位はどんどん上がっていく。
『狂骨さん。このまま雨が続けば、きっと私は外に出られるようになりますね』
『……そうだな』
考えるまでもないことだ。雨が降れば水が溜まる。水が縁まで溜まれば、泳げるカエルは井戸の外に出られるようになるだろう。
きっとカエルは出て行くだろう。だけど、自分は水に浮かぶことができないので、この井戸から出ることができない。もしかしたら本気を出せば宙に浮いて縁まで手が届くかもしれないが、狂骨である自分の存在意義はこの井戸と共にある。例え井戸の上に上がることができたとしても、供養でもされない限り、自分はずっとこの井戸の中に居続けなければならない。それが狂骨である矜持でもある。
少しずつ、雨は強くなり、やがて水位は狂骨の肩まで上がってくる。
それにしても強い雨だ。きっと部落では酷い有様だろう。川は氾濫して、田畑は荒れ、飢饉が発生するだろう。もしそれが、自分の知っている故郷であるのなら。
カエルは出て行く。そのことに、寂しさを感じる狂骨であった。考えることはでないが、感じることはできる。肌で感じることはできないが、心で想うことはできる。
寂しい。だけど、同時に出て行くことがカエルにとって良いことであるとも感じていた。ここにいてもカエルには未来がない。今度いつ、このような大雨がこの枯れ井戸に訪れるか分からない。
だったら、出て行った方が良い。そうすれば子孫を残すことができるし、色々なモノを知ることができる。
――井の中の蛙、大海を知らず。どうやら自分は生前中々の識者だったらしい。こんな言葉が出てくるなんて、きっと名のある学者だったのだろう。
そして、学ぶことはカエルにとって良いことだろう。こんな暗い井戸の中にいることより、多少危険でも外の世界で色々なことを知り、その生き様を確かなモノにした方が良い。こんな自分と同じような無意味なモノに成り下がるより、何倍もいい生き方だ。
『私は、出て行きませんよ。ずっと、あなたと一緒にいます』
だというのに、カエルはそんなことをのたまう。止めてくれ、せっかく決心したのに、そんなことを言われると決意が揺らぐだろうに……。
『私はあなたに色々なことを教えてもらいました。この井戸の中の生き物、天気の見方、そして様々な知識、故事、教訓……その中で印象深いものがあります。――井の中の蛙、大海を知らず、されど空の青さは知る。と……』
ふと、自分でもすっかり忘れていた知識を、カエルは披露した。
それはいつのことだったか、知識のなかったカエルを嘲って言った言葉だった。それで拗ねてしまったカエルの機嫌を取る為に、付け足した言葉だった。
この言葉は原文にはない。この国に入って後から付け足された言葉だという。だから、その言葉自体には言う人に言わせれば、きっと意味がないのかもしれない。
だけれど、忘れてしまっていたのに、今の自分にとってそれはとても心地の良い言葉だった。ずっと井戸の底にいる自分に、意味があるとしたらきっとその言葉に答えがある。
カエルは枯れ井戸の底で青空を眺めていた。
枯れ井戸といっても多少の水はある。だが、人が使えるほどの水の量はない。井戸底の石が水面から頭を出していることからも、その水量は窺い知ることができるだろう。
そして、その水面から頭を出しているのは何も石だけではなかった。
『天気、いいですね』
カエルは、石の上でそう鳴いた。
『その割りに、ここはいつでもじめじめしているけどな』
しゃれこうべは、井戸の壁に寄り掛かりからからと鳴いた。
カエルはただのアマガエルで、しゃれこうべは井戸の底にいるのだからと、自分は狂骨だと自称している。
『まあ、仕方ありませんよ。だって、井戸の底ですよ。本当なら水が懇々と湧き出ている筈なのですから』
『だけどさ、少しは過ごしやすくなんねぇかなって思うわけよ』
『私にとっては中々に過ごしやすいのですよ』
そりゃぁ、カエルだからな。そう、狂骨はからから笑う。
『年中水位も安定しているし、水も淀んでたり腐ってたりはしないので』
確かに、微かだが水の流れはある。それに、時折雨も降るので、水が悪くなることはあまりない。
そりゃぁ、一時期はかなり腐っていたが、それも昔の話だ。今じゃ綺麗で透き通るような水が湧き出てはどこかに流れていっている。
はてさて、それはいつの話だったか。狂骨は考える。考えたところで、既に自分の頭からは脳みそが流れ出ているので、考えようにも考えがまとまらない。
『私がここに落ちてきた時には、既にいましたよね?』
『はてさて、何年前の話だか……』
死語の記憶は抜け落ち、生前の記憶も磨耗する。あるのは情念ぐらいだ。魂と言ってもいい。とにかく、自分が何故ここに落ちてきたのか、思い出せない狂骨だった。
『まだここで冬眠をしていないので、冬は越していないと思います』
『そーいえばお前さん、どうすんだよ。冬も近いぞ?』
『ここなら落ち葉もありますし、多分何とかなります。それに、冬を越せないで死んでしまう覚悟ぐらい、してますよ』
そうなると、このカエルも自分の仲間入りしてしまうということだ。まあ、覚悟していると言っているので、それもいいのだろう。自分が決めることではないと、狂骨はからから唸る。
しかし、このカエルとも長い付き合いになる。と言っても、先ほどから言っているように脳みそはなくなっているので客観的に判断する能力はない。ただ何となくそう思うだけだ。その半年にもなる同居生活ゆえに、こうやって会話するぐらいには気心の知れた仲になっているのだ。
カエルは随分ここにいるが、餌の類には困っていないらしい。井戸の中には木の葉が落ちてきて、その落葉が腐って水草やコケの栄養となる。そしてそのコケを食べる虫がいて、そしてその虫を食べるカエルがいる。その中で、自分だけは飲まず食わずでこうやって井戸の底にずっといる。そのことに疑問を覚えないわけではないが、そういうものだと理解もしている。
ところで、自分がここにいる理由とはなんだっただろうか。考えたところで脳みそがないのだから、答えが出るわけではないのに、ひたすら哲学する。半年振りに、狂骨は趣味の哲学に没頭する。
いや、哲学するしか楽しみがなかったのかもしれない。例え考えたところで、数秒後には頭の中から考えが零れ落ちてしまうにしても、狂骨は考えざるを得なかった。考えるだけが、ここでの楽しみだったからだ。
だったら今は?
『狂骨さん、日差しが入ってきましたね』
そうだ、カエルがいた。最近哲学に耽ることがなかったのは、このカエルが原因だったか。
『ああ、暖かいな……』
と言っても、本当に暖かさを感じているわけではない。ただ、日差しが入ってきたという事実が、自分に暖かさという幻覚を感じさせているだけだ。
それでも、ああ、これは暖かいな。例え忘れてしまうのだとしても、この幻覚は忘れたくないと思う。
しかし、その幻覚も数時間と持たなかった。何故なら、太陽が分厚い雲に飲み込まれてしまったからだ。
『狂骨さん、雨ですね』
『こりゃ、長く続きそうだな』
雨は長く続いた。井戸の中の水位はどんどん上がっていく。
『狂骨さん。このまま雨が続けば、きっと私は外に出られるようになりますね』
『……そうだな』
考えるまでもないことだ。雨が降れば水が溜まる。水が縁まで溜まれば、泳げるカエルは井戸の外に出られるようになるだろう。
きっとカエルは出て行くだろう。だけど、自分は水に浮かぶことができないので、この井戸から出ることができない。もしかしたら本気を出せば宙に浮いて縁まで手が届くかもしれないが、狂骨である自分の存在意義はこの井戸と共にある。例え井戸の上に上がることができたとしても、供養でもされない限り、自分はずっとこの井戸の中に居続けなければならない。それが狂骨である矜持でもある。
少しずつ、雨は強くなり、やがて水位は狂骨の肩まで上がってくる。
それにしても強い雨だ。きっと部落では酷い有様だろう。川は氾濫して、田畑は荒れ、飢饉が発生するだろう。もしそれが、自分の知っている故郷であるのなら。
カエルは出て行く。そのことに、寂しさを感じる狂骨であった。考えることはでないが、感じることはできる。肌で感じることはできないが、心で想うことはできる。
寂しい。だけど、同時に出て行くことがカエルにとって良いことであるとも感じていた。ここにいてもカエルには未来がない。今度いつ、このような大雨がこの枯れ井戸に訪れるか分からない。
だったら、出て行った方が良い。そうすれば子孫を残すことができるし、色々なモノを知ることができる。
――井の中の蛙、大海を知らず。どうやら自分は生前中々の識者だったらしい。こんな言葉が出てくるなんて、きっと名のある学者だったのだろう。
そして、学ぶことはカエルにとって良いことだろう。こんな暗い井戸の中にいることより、多少危険でも外の世界で色々なことを知り、その生き様を確かなモノにした方が良い。こんな自分と同じような無意味なモノに成り下がるより、何倍もいい生き方だ。
『私は、出て行きませんよ。ずっと、あなたと一緒にいます』
だというのに、カエルはそんなことをのたまう。止めてくれ、せっかく決心したのに、そんなことを言われると決意が揺らぐだろうに……。
『私はあなたに色々なことを教えてもらいました。この井戸の中の生き物、天気の見方、そして様々な知識、故事、教訓……その中で印象深いものがあります。――井の中の蛙、大海を知らず、されど空の青さは知る。と……』
ふと、自分でもすっかり忘れていた知識を、カエルは披露した。
それはいつのことだったか、知識のなかったカエルを嘲って言った言葉だった。それで拗ねてしまったカエルの機嫌を取る為に、付け足した言葉だった。
この言葉は原文にはない。この国に入って後から付け足された言葉だという。だから、その言葉自体には言う人に言わせれば、きっと意味がないのかもしれない。
だけれど、忘れてしまっていたのに、今の自分にとってそれはとても心地の良い言葉だった。ずっと井戸の底にいる自分に、意味があるとしたらきっとその言葉に答えがある。
作品名:井蛙は狂骨の為に歌う 作家名:最中の中