漂礫 三、
三、
橋の土木工事があり、普請方という請負業者がある。
普請方の親分に気に入られ、飯も寝床も用意してやると言われて十日ほどになる。『女がいる』と親方に伝えると、
「うちには大勢暮らしている。飯や洗い物の世話だけでも手が足りない」
と、いうことで普請方の親分の家で風も一緒に暮らしている。元々は腹が減って飯代を稼ぐために仕事を探した。貧乏さむらいと親方は笑った。刀を置いて土を運んだ。
親方には子供が二人いて、男の子がこ助、女の子がお藤という。こ助は俺に、お藤は風によくなついていた。夕飯を食べた後、庭でこ助に剣術を教える。木刀を振ればすぐに疲れたといって弱音を吐く。
武蔵はすごいな。いくらでも木刀が振れる。
こ助は純粋な目でそう言う。
「稽古しろ。毎日、毎日。そうすれば力がつく」
お藤が姉で、こ助が弟。お藤は風と一緒にこ助の稽古を見ている。男はどうして乱暴になるのかな。お藤の質問に風は答える。
「頭が悪いのだ」
十日ほどもそうしていると、風の口調をお藤が真似始めた。「こ助は早くご飯を食べたほうがいい」抑揚のない口調で、まだ食べているこ助の膳をお藤が下げる。親方はそれが可笑しいらしく、
「女はこれくらいのほうが強くていい」と笑い飛ばす。
橋普請で働いている男たちが親方の家にたくさん暮らしているため、親方の奥方はもちろん、近所の奥方たちが飯や風呂の用意などを手伝ってくれる。上手くやれば普請方はそれなりに儲かるのだろうが、ここの親分は手伝ってくれる人たちにもかなり手当てを出しているようだ。
信頼が厚い。
それは働いている男たちだけでなく、近所の評判でもわかる。
「お前の嫁は、よくできた嫁だ」
親方が言った。風のことを言っている。説明するのが面倒なので嫁ということにしている。一緒に働いている男どもが、時々冷かして言う。あんないい女そういねぇ。そりゃお前、色町の女しか知らねえからだよ。いやあれだけの別嬪は世間にもいねえだろうよ。うらやましい。どこで見つけてきたんだ。
どこから来た女なのか、知らない。だが、そんな答えをしたところで仕方がない。笑って受け流すだけだった。
いつものように、飯が終わってこ助と木刀を振っていると玄関で大人数が騒いでいる声がした。
「たいへんです。十市組が来ました」
親方がため息と一緒に立ち上がった。
「また久蔵です」
久蔵は小柄で色黒で前歯の無い男だ。橋普請で一緒に働いている。力もなく、すぐに休もうとする。昼の握り飯も一つしか食べない。そのうち死んでしまうんじゃないかと思い見ていた。ほかの仲間ともあまり喋らない。
「博打だよ」
そばにいた寅という名の力自慢の男が教えてくれた。「博打で負けて、払う金がないからやくざがくるんだ。もう何度目か分からない」
寅と一緒に玄関まで見に行った。親方が金を払ったようで、久蔵が引き渡されていた。ほほが腫れ、唇を切っていた。腫れあがったほほからも血が流れていた。
てめえ
へいじと呼ばれている若くて元気な男が久蔵に飛び掛かった。何発か殴って、まわりに引きはがされた。「親分がてめえのためにいったいいくら銭を使ったと思ってやがんだ」へいじは叫んだ。寅がへいじを抑えた。体躯の巨大な寅に抑えられて、へいじも静かになった。親方は手でへいじを連れて行けと合図し、「だれか、久蔵を家まで送って行ってやれ」とだけ言った。
屋敷に戻ると縁側で風とこ助とお藤が座っていた。お藤は風の腕に抱かれていた。
「騒ぎが怖いって」風が俺に言った。
「武蔵がいるから大丈夫だよって、俺は言ってたんだ」
こ助が言う。
三人の隣に座り、親方ってやつはたいへんな仕事だと感心した。
それからまた十日ほどして、橋普請の現場にやくざ風の男が数人現れた。親方を訪ねてきたらしく、どこかで見た顔だと思っていたが、久蔵の騒ぎの時に金を取り立てに来ていた十市組の連中だと気付いた。
そういえば、ここ二日ほど久蔵の姿が見えない。
親方と現場の小屋で話し込んでいた様子で、小屋から出てきたところで鉢合わせた。
やくざが三人と、一番後ろに侍が着いてきていた。小奇麗でさっぱりした侍だった。体躯の大きな俺を威嚇したのかえらく睨まれたが、剣を合わせようとも思えなかった。もちろん相手は俺が刀を振り回せるなど思いもしないだろう。小奇麗な侍とはそういうものだ。
翌朝、現場が荒らされていた。
夜分に誰かが土を掘り返し、杭を抜き、鍬や木槌を折った。
みんな呆然としていた。
「夜中の真っ暗闇の中で、ご苦労なことだな」親方が言う。「仕事の前に片付けから始めようか。修理できる道具は修理して使おう」
片付けの最中に、普請方をまとめる役人がやって来て言った。
「ここで働いている男が川で上がった」
親方は俺と寅に着いて来いと言った。現場に残る連中に、何があっても騒ぎを起こすんじゃないとくぎを刺した。
川べりに人だかりができていて、親方が掻き分けて川から上がった遺体を確認した。
うちで働いている仁平だ。
役人が親方に言った。
「昨日、十市の賭場で遊んでいたという話は聞こえてきている」
親方は仁平の体に刺し傷があるのを見つけた。
「川に投げ込まれる前に、刀でぶすりとやられてるな」役人が言った。
十市の野郎、寅が俺のすぐ隣で押し殺して言った。昨日、親分のところに来て次の普請を十市組に譲れと言ってやがった、親分が追い返したんだ。
親方は仁平に線香をあげて手を合わせた。
橋普請の現場に戻ってくると、風が来ていた。
「お藤ちゃんが連れさられた」
小さな声で、俺と親方に聞こえるように言った。「すまない。私が使いに出ている隙をやられた」風は唇をかんだ。「久蔵が屋敷に来ていたらしい。おそらく、奴が連れだした」
「十市の野郎」
親方の絞り出す声がした。風が俺を見て、言った。
「先に行く」
どこへ、とも聞かなかった。寅が大きな声で言った。「もう我慢できねぇ」
「親方、十市のとこへ行こう」へいじが親方に詰め寄った。寅も言う。「当たり前だ。お藤ちゃんは俺たちの娘でもあるんだ」
普請の現場から、親方も寅もへいじも、みんなが駆けだし、勢いそのままで十市の屋敷になだれ込んだ。
十市組の親分はいかにもやくざと言える風貌で、それを囲むようにまた切れ味の悪い刃物のような連中が取り巻いていた。
「ようやく、俺たちと話し合う気になったか」
十市が言った。親方が怒鳴り返すと同時に、へいじが飛び掛かる。十市の隣にいた小奇麗な侍がいきなり抜刀した。へいじがよろよろと後ろへ下がってきた。俺はへいじの体を受け止めた。胸が斬られていた。
寅が堪えきれずに飛び出す。侍は刀を寅に向けて制した。
「大丈夫だ。この傷じゃへいじは死なない」俺は後ろにいた男にへいじを預けた。「強い酒をぶっかけて消毒してやれ。痛いぞ。耐えろ。まだ死なない」へいじに言った。
「うまく避けたものだ」
小奇麗な侍が言った。違う、踏み込みが甘いから斬れなかった。飛び掛かってくる相手との間合いを取れていない。
「仁平を斬ったのもてめえか」親方が侍に言った。
「物騒なことを言う」侍が笑った。薄い笑い方だった。
橋の土木工事があり、普請方という請負業者がある。
普請方の親分に気に入られ、飯も寝床も用意してやると言われて十日ほどになる。『女がいる』と親方に伝えると、
「うちには大勢暮らしている。飯や洗い物の世話だけでも手が足りない」
と、いうことで普請方の親分の家で風も一緒に暮らしている。元々は腹が減って飯代を稼ぐために仕事を探した。貧乏さむらいと親方は笑った。刀を置いて土を運んだ。
親方には子供が二人いて、男の子がこ助、女の子がお藤という。こ助は俺に、お藤は風によくなついていた。夕飯を食べた後、庭でこ助に剣術を教える。木刀を振ればすぐに疲れたといって弱音を吐く。
武蔵はすごいな。いくらでも木刀が振れる。
こ助は純粋な目でそう言う。
「稽古しろ。毎日、毎日。そうすれば力がつく」
お藤が姉で、こ助が弟。お藤は風と一緒にこ助の稽古を見ている。男はどうして乱暴になるのかな。お藤の質問に風は答える。
「頭が悪いのだ」
十日ほどもそうしていると、風の口調をお藤が真似始めた。「こ助は早くご飯を食べたほうがいい」抑揚のない口調で、まだ食べているこ助の膳をお藤が下げる。親方はそれが可笑しいらしく、
「女はこれくらいのほうが強くていい」と笑い飛ばす。
橋普請で働いている男たちが親方の家にたくさん暮らしているため、親方の奥方はもちろん、近所の奥方たちが飯や風呂の用意などを手伝ってくれる。上手くやれば普請方はそれなりに儲かるのだろうが、ここの親分は手伝ってくれる人たちにもかなり手当てを出しているようだ。
信頼が厚い。
それは働いている男たちだけでなく、近所の評判でもわかる。
「お前の嫁は、よくできた嫁だ」
親方が言った。風のことを言っている。説明するのが面倒なので嫁ということにしている。一緒に働いている男どもが、時々冷かして言う。あんないい女そういねぇ。そりゃお前、色町の女しか知らねえからだよ。いやあれだけの別嬪は世間にもいねえだろうよ。うらやましい。どこで見つけてきたんだ。
どこから来た女なのか、知らない。だが、そんな答えをしたところで仕方がない。笑って受け流すだけだった。
いつものように、飯が終わってこ助と木刀を振っていると玄関で大人数が騒いでいる声がした。
「たいへんです。十市組が来ました」
親方がため息と一緒に立ち上がった。
「また久蔵です」
久蔵は小柄で色黒で前歯の無い男だ。橋普請で一緒に働いている。力もなく、すぐに休もうとする。昼の握り飯も一つしか食べない。そのうち死んでしまうんじゃないかと思い見ていた。ほかの仲間ともあまり喋らない。
「博打だよ」
そばにいた寅という名の力自慢の男が教えてくれた。「博打で負けて、払う金がないからやくざがくるんだ。もう何度目か分からない」
寅と一緒に玄関まで見に行った。親方が金を払ったようで、久蔵が引き渡されていた。ほほが腫れ、唇を切っていた。腫れあがったほほからも血が流れていた。
てめえ
へいじと呼ばれている若くて元気な男が久蔵に飛び掛かった。何発か殴って、まわりに引きはがされた。「親分がてめえのためにいったいいくら銭を使ったと思ってやがんだ」へいじは叫んだ。寅がへいじを抑えた。体躯の巨大な寅に抑えられて、へいじも静かになった。親方は手でへいじを連れて行けと合図し、「だれか、久蔵を家まで送って行ってやれ」とだけ言った。
屋敷に戻ると縁側で風とこ助とお藤が座っていた。お藤は風の腕に抱かれていた。
「騒ぎが怖いって」風が俺に言った。
「武蔵がいるから大丈夫だよって、俺は言ってたんだ」
こ助が言う。
三人の隣に座り、親方ってやつはたいへんな仕事だと感心した。
それからまた十日ほどして、橋普請の現場にやくざ風の男が数人現れた。親方を訪ねてきたらしく、どこかで見た顔だと思っていたが、久蔵の騒ぎの時に金を取り立てに来ていた十市組の連中だと気付いた。
そういえば、ここ二日ほど久蔵の姿が見えない。
親方と現場の小屋で話し込んでいた様子で、小屋から出てきたところで鉢合わせた。
やくざが三人と、一番後ろに侍が着いてきていた。小奇麗でさっぱりした侍だった。体躯の大きな俺を威嚇したのかえらく睨まれたが、剣を合わせようとも思えなかった。もちろん相手は俺が刀を振り回せるなど思いもしないだろう。小奇麗な侍とはそういうものだ。
翌朝、現場が荒らされていた。
夜分に誰かが土を掘り返し、杭を抜き、鍬や木槌を折った。
みんな呆然としていた。
「夜中の真っ暗闇の中で、ご苦労なことだな」親方が言う。「仕事の前に片付けから始めようか。修理できる道具は修理して使おう」
片付けの最中に、普請方をまとめる役人がやって来て言った。
「ここで働いている男が川で上がった」
親方は俺と寅に着いて来いと言った。現場に残る連中に、何があっても騒ぎを起こすんじゃないとくぎを刺した。
川べりに人だかりができていて、親方が掻き分けて川から上がった遺体を確認した。
うちで働いている仁平だ。
役人が親方に言った。
「昨日、十市の賭場で遊んでいたという話は聞こえてきている」
親方は仁平の体に刺し傷があるのを見つけた。
「川に投げ込まれる前に、刀でぶすりとやられてるな」役人が言った。
十市の野郎、寅が俺のすぐ隣で押し殺して言った。昨日、親分のところに来て次の普請を十市組に譲れと言ってやがった、親分が追い返したんだ。
親方は仁平に線香をあげて手を合わせた。
橋普請の現場に戻ってくると、風が来ていた。
「お藤ちゃんが連れさられた」
小さな声で、俺と親方に聞こえるように言った。「すまない。私が使いに出ている隙をやられた」風は唇をかんだ。「久蔵が屋敷に来ていたらしい。おそらく、奴が連れだした」
「十市の野郎」
親方の絞り出す声がした。風が俺を見て、言った。
「先に行く」
どこへ、とも聞かなかった。寅が大きな声で言った。「もう我慢できねぇ」
「親方、十市のとこへ行こう」へいじが親方に詰め寄った。寅も言う。「当たり前だ。お藤ちゃんは俺たちの娘でもあるんだ」
普請の現場から、親方も寅もへいじも、みんなが駆けだし、勢いそのままで十市の屋敷になだれ込んだ。
十市組の親分はいかにもやくざと言える風貌で、それを囲むようにまた切れ味の悪い刃物のような連中が取り巻いていた。
「ようやく、俺たちと話し合う気になったか」
十市が言った。親方が怒鳴り返すと同時に、へいじが飛び掛かる。十市の隣にいた小奇麗な侍がいきなり抜刀した。へいじがよろよろと後ろへ下がってきた。俺はへいじの体を受け止めた。胸が斬られていた。
寅が堪えきれずに飛び出す。侍は刀を寅に向けて制した。
「大丈夫だ。この傷じゃへいじは死なない」俺は後ろにいた男にへいじを預けた。「強い酒をぶっかけて消毒してやれ。痛いぞ。耐えろ。まだ死なない」へいじに言った。
「うまく避けたものだ」
小奇麗な侍が言った。違う、踏み込みが甘いから斬れなかった。飛び掛かってくる相手との間合いを取れていない。
「仁平を斬ったのもてめえか」親方が侍に言った。
「物騒なことを言う」侍が笑った。薄い笑い方だった。