漂礫 二、
二、
峠を越えたあたりで夜が明けた。
集落が見えた。
「ずっと歩いて腹が減った。握り飯でももらえばよかった」
「誰にもらうつもりだ」
風が聞いた。
「あの庄屋だ。命を助けてやった。今思えば刀だけじゃ割に合わん」
「だから言った、あれだけ暴れてしまえば、握り飯を作る暇もない」「酒も猪も置いてきた」「あの村で、また人助けでもすればよい」見える集落を指した。
「そんなに都合よく賊はいない」
歩き出した。
ゆっくり峠を下りながら歩いた。
「ところで、いつまでこうして俺についてくる気だ」
何も答えなかった。それは予想通りだった。
「まあ好きにすればいい」
さらに峠を越えると小さな町に出た。
日が高くなり、腹が減った。
「さすがに限界だ。何か食おう。多少だが銭ならある」
餅を買い、茶を飲みながら荷台に大量の薪を積んで引いている年寄りと子供を見ていた。
「武蔵は、少し体と服をきれいにしたほうがいい」
「におうか」「におうし、汚い」
「では、どこか剣術を教えているところへいこう」
餅屋で近くの道場を聞いた。
「なぜ体を洗うのに剣術道場へ行くのだ」
風は首をかしげながらついてきた。
道場の近くまでくると、大きな声が聞こえてきた。威勢がいいな。俺は風に言った。乱暴だ。風が一言だけ答えた。道場の玄関で、大きな声で呼びかけたが誰も出てこなかった。
「稽古中だから誰も出てこないのか」風が言う。
玄関を入り、声がするほうへ歩き出すと、慌てた様子で若い男が駆けてきた。
「どちらさまでしょうか」
「稽古をつけてもらいに来た」
「こんな時に」若い男は困惑したようだった。
「道場からさかんに声が聞こえるが」
「いや、あれは」ますます困ったように顔をしかめた。
「俺もそれなりに腕に自信がある。強い稽古をつけているなら見てみたい」
「いや、ですから、あれは」
男が困っていると、大声が響く道場のほうから風が歩いてきた。
「たいへんなことになっているようだ」
応対に出てきた若い男も驚いたようだが、俺も同じように驚いた。いつのまに道場まで歩き出していたのか。「なんだか柄のよくない人たちの威勢がよい」
「道場破りでも、されているのか」
道場へ向かった。なるほど、柄がよくない。
かなりの人数が道場の床で倒れ呻いている。大柄な男が一人、青い顔をして正座をしている。顔だけ見れば、髭を蓄えて威圧感も十分なはずだが、道場の真ん中で木刀を手に立っている五人の大男の威圧感にはかなわない様子だった。
「どうしたっ。もう誰もいないのかっ」
外まで聞こえていた大きな声は、こいつの威勢だった。
「あの髭が、この道場の先生か」
玄関で応対してくれた男に聞いた。
頷いて、「ほかの人はみんな、あの様子です」床で呻いている男たちを指して言った。
「きっと、先生もかなわない。どうしよう」
道場へ大股で入っていき、大声で叫んだ。
「先生。ただいま帰りました」
青ざめた顔の髭面は、目を丸くして俺を見上げた。続けて言った。
「自分勝手に武者修行を望み、諸国をめぐってただ今帰ってきました。久しぶりに帰ってきた懐かしい道場のこの様子、いったいどうしましたか」
髭面が何か言いかけたが、畳み掛けて言う。
「俺のいない間に、我が神聖な道場を汚す畜生を、今から私が退治します」
「だれが畜生だ」
五人組が言った。鼻息が荒い。面白くなってきた。
「先生が教える剣術は心。その心を教えられている我がおとうと弟子に無残な木刀を振り下ろす畜生を許すほど俺は仏じゃない」
「何を言ってやがる」
柄のよくない五人組の一人が前に出てきた。何を言っているのか自分でもわからない。が、面白くなってきたのでさらに続けた。
「先生の教えに背き続けた俺の剣。どうかお許しください。いや、俺がこの畜生どもを許さないように、先生は俺の成敗を許さないでしょう。それも仕方ない。しかし、先生や我が弟たち、そして心を説く神聖な道場がこんな連中に汚されていくのを黙ってみているわけにもいきません」
いきなり、道場破りの一人が飛び掛かってきた。
とっさに抜刀しかけたが堪えて横に跳んで避けた。
「まだ話が終わっちゃいない」
「その訳のわからない芝居がかった話ならやめろ」
「では手合せいただこうか」床に倒れ呻いている男のそばに転がっている木刀を手にした。
「真剣でもいいんだぜ」道場破りが言う。
「騒ぎを起こしたくない。腹が減っているし、風呂にも入りたい」
道場破りたちは、意味が分からないというように顔を見合わせた。
もう一本、木刀を取り上げた。
左右、手に一本ずつ。
「ふざけやがって」
「めんどうだから、いっぺんに掛かってこい。両手で相手してやる」
正面の男が突いてきた。速い、強い突きだった。右にかわしながら右手の木刀で小手を打ち相手の木刀を叩き落として、左手の木刀を首に打ち込んだ。床に倒れ痙攣する。声を出す間もなかっただろう。残った四人は一斉に構えた。ようやく本気を出さなければならないと感じたようだった。
「お前らも稽古をしに来たのだろう。俺にとっても稽古になる。本気で来い」笑いが込み上げてきた。「死ぬぞ」面白い。
一番手前にいた男が左小手を狙って打ち込んでくる。左の木刀を下げ左足を引くと後ろに回り込んでいた男が上段から打ち下ろしてきた。床を蹴り後ろから打ち下ろしてくる男に右肩から突っ込んだ。俺の右肩が木刀を振りかぶったためがら空きになったみぞおちに食い込む。勢いよく振り下ろしていた木刀が俺を通り越すと不意に食らったみぞおちの衝撃で床に転がり落ちた。すぐさま右足で踏ん張り正面から突いてきた三人目の木刀を右手の木刀で払うと同時に左の木刀が突いてきた男の横面を殴り倒していく。四人目が俺に向かって踏み込んでくるのを右の木刀で制すると、小手を狙って空振りした一人目が出した突きを左の木刀で跳ね上げ、右足を踏み込み右側の四人目を制していた右の木刀で突きを跳ね上げられた一人目のみぞおちに強烈な突きを入れた。突きを跳ね上げられ両手を挙げたまま鶏を絞めたときのような声を発して崩れ落ち、その近くに落ちていた木刀を拾い上げようとしている先ほどみぞおちに右肩を食らった男の脳天を左の木刀で軽く叩き割った。
足元に泡を吹き白目をむいた男が四人。
その周りで呻き声を出して倒れている男が数人。
道場の端で、顔を青くしている髭面が一人。そして俺の前で、木刀を構えたまま水をかぶったように汗で顔を濡らして動けなくなっている大男が一人。
「俺が留守にしていたせいで、お前たちにとって稽古にならぬ者たちばかりを相手にさせてしまった。そのことは詫びよう」
低い声で言った。「これからが、本当の稽古だ」
間合いを詰める。男が下がる。さらに詰めた。男が息苦しくなっているのが分かる。俺が息を吐くと、その時を待っていたように男が打ち込んできた。
速くて、力強い。
最初に突きを放ってきた男も、速く強かった。
峠を越えたあたりで夜が明けた。
集落が見えた。
「ずっと歩いて腹が減った。握り飯でももらえばよかった」
「誰にもらうつもりだ」
風が聞いた。
「あの庄屋だ。命を助けてやった。今思えば刀だけじゃ割に合わん」
「だから言った、あれだけ暴れてしまえば、握り飯を作る暇もない」「酒も猪も置いてきた」「あの村で、また人助けでもすればよい」見える集落を指した。
「そんなに都合よく賊はいない」
歩き出した。
ゆっくり峠を下りながら歩いた。
「ところで、いつまでこうして俺についてくる気だ」
何も答えなかった。それは予想通りだった。
「まあ好きにすればいい」
さらに峠を越えると小さな町に出た。
日が高くなり、腹が減った。
「さすがに限界だ。何か食おう。多少だが銭ならある」
餅を買い、茶を飲みながら荷台に大量の薪を積んで引いている年寄りと子供を見ていた。
「武蔵は、少し体と服をきれいにしたほうがいい」
「におうか」「におうし、汚い」
「では、どこか剣術を教えているところへいこう」
餅屋で近くの道場を聞いた。
「なぜ体を洗うのに剣術道場へ行くのだ」
風は首をかしげながらついてきた。
道場の近くまでくると、大きな声が聞こえてきた。威勢がいいな。俺は風に言った。乱暴だ。風が一言だけ答えた。道場の玄関で、大きな声で呼びかけたが誰も出てこなかった。
「稽古中だから誰も出てこないのか」風が言う。
玄関を入り、声がするほうへ歩き出すと、慌てた様子で若い男が駆けてきた。
「どちらさまでしょうか」
「稽古をつけてもらいに来た」
「こんな時に」若い男は困惑したようだった。
「道場からさかんに声が聞こえるが」
「いや、あれは」ますます困ったように顔をしかめた。
「俺もそれなりに腕に自信がある。強い稽古をつけているなら見てみたい」
「いや、ですから、あれは」
男が困っていると、大声が響く道場のほうから風が歩いてきた。
「たいへんなことになっているようだ」
応対に出てきた若い男も驚いたようだが、俺も同じように驚いた。いつのまに道場まで歩き出していたのか。「なんだか柄のよくない人たちの威勢がよい」
「道場破りでも、されているのか」
道場へ向かった。なるほど、柄がよくない。
かなりの人数が道場の床で倒れ呻いている。大柄な男が一人、青い顔をして正座をしている。顔だけ見れば、髭を蓄えて威圧感も十分なはずだが、道場の真ん中で木刀を手に立っている五人の大男の威圧感にはかなわない様子だった。
「どうしたっ。もう誰もいないのかっ」
外まで聞こえていた大きな声は、こいつの威勢だった。
「あの髭が、この道場の先生か」
玄関で応対してくれた男に聞いた。
頷いて、「ほかの人はみんな、あの様子です」床で呻いている男たちを指して言った。
「きっと、先生もかなわない。どうしよう」
道場へ大股で入っていき、大声で叫んだ。
「先生。ただいま帰りました」
青ざめた顔の髭面は、目を丸くして俺を見上げた。続けて言った。
「自分勝手に武者修行を望み、諸国をめぐってただ今帰ってきました。久しぶりに帰ってきた懐かしい道場のこの様子、いったいどうしましたか」
髭面が何か言いかけたが、畳み掛けて言う。
「俺のいない間に、我が神聖な道場を汚す畜生を、今から私が退治します」
「だれが畜生だ」
五人組が言った。鼻息が荒い。面白くなってきた。
「先生が教える剣術は心。その心を教えられている我がおとうと弟子に無残な木刀を振り下ろす畜生を許すほど俺は仏じゃない」
「何を言ってやがる」
柄のよくない五人組の一人が前に出てきた。何を言っているのか自分でもわからない。が、面白くなってきたのでさらに続けた。
「先生の教えに背き続けた俺の剣。どうかお許しください。いや、俺がこの畜生どもを許さないように、先生は俺の成敗を許さないでしょう。それも仕方ない。しかし、先生や我が弟たち、そして心を説く神聖な道場がこんな連中に汚されていくのを黙ってみているわけにもいきません」
いきなり、道場破りの一人が飛び掛かってきた。
とっさに抜刀しかけたが堪えて横に跳んで避けた。
「まだ話が終わっちゃいない」
「その訳のわからない芝居がかった話ならやめろ」
「では手合せいただこうか」床に倒れ呻いている男のそばに転がっている木刀を手にした。
「真剣でもいいんだぜ」道場破りが言う。
「騒ぎを起こしたくない。腹が減っているし、風呂にも入りたい」
道場破りたちは、意味が分からないというように顔を見合わせた。
もう一本、木刀を取り上げた。
左右、手に一本ずつ。
「ふざけやがって」
「めんどうだから、いっぺんに掛かってこい。両手で相手してやる」
正面の男が突いてきた。速い、強い突きだった。右にかわしながら右手の木刀で小手を打ち相手の木刀を叩き落として、左手の木刀を首に打ち込んだ。床に倒れ痙攣する。声を出す間もなかっただろう。残った四人は一斉に構えた。ようやく本気を出さなければならないと感じたようだった。
「お前らも稽古をしに来たのだろう。俺にとっても稽古になる。本気で来い」笑いが込み上げてきた。「死ぬぞ」面白い。
一番手前にいた男が左小手を狙って打ち込んでくる。左の木刀を下げ左足を引くと後ろに回り込んでいた男が上段から打ち下ろしてきた。床を蹴り後ろから打ち下ろしてくる男に右肩から突っ込んだ。俺の右肩が木刀を振りかぶったためがら空きになったみぞおちに食い込む。勢いよく振り下ろしていた木刀が俺を通り越すと不意に食らったみぞおちの衝撃で床に転がり落ちた。すぐさま右足で踏ん張り正面から突いてきた三人目の木刀を右手の木刀で払うと同時に左の木刀が突いてきた男の横面を殴り倒していく。四人目が俺に向かって踏み込んでくるのを右の木刀で制すると、小手を狙って空振りした一人目が出した突きを左の木刀で跳ね上げ、右足を踏み込み右側の四人目を制していた右の木刀で突きを跳ね上げられた一人目のみぞおちに強烈な突きを入れた。突きを跳ね上げられ両手を挙げたまま鶏を絞めたときのような声を発して崩れ落ち、その近くに落ちていた木刀を拾い上げようとしている先ほどみぞおちに右肩を食らった男の脳天を左の木刀で軽く叩き割った。
足元に泡を吹き白目をむいた男が四人。
その周りで呻き声を出して倒れている男が数人。
道場の端で、顔を青くしている髭面が一人。そして俺の前で、木刀を構えたまま水をかぶったように汗で顔を濡らして動けなくなっている大男が一人。
「俺が留守にしていたせいで、お前たちにとって稽古にならぬ者たちばかりを相手にさせてしまった。そのことは詫びよう」
低い声で言った。「これからが、本当の稽古だ」
間合いを詰める。男が下がる。さらに詰めた。男が息苦しくなっているのが分かる。俺が息を吐くと、その時を待っていたように男が打ち込んできた。
速くて、力強い。
最初に突きを放ってきた男も、速く強かった。