舞うが如く 第七章 10~13
このころの富岡製糸場では、
すでに400名を越える全国からの工女たちが働いていました。
富岡製糸場は、明治5年(1872年)10月4日に開業して、わが国の期待を
一身に背負って、近代産業化の第一歩を踏み出しました。
まだ産業革命の端緒にさえ着いていなかった当時の日本の現状の中で、
建設されたこの富岡製糸場は、欧州における近代的工場たちを、
いくつかの点おいて、すでに凌駕していました。
まずは,その工場の規模においてです。
操糸工場は長さが140.4m,幅12.3m,高さ12.1m のレンガ造り平屋建てで、
文字通り、世界最大の規模を誇りました。
鉄製の製糸器械等においても同じ事が言えました。
すでに産業革命が終了している欧州の器械製糸工場でも、
50~150台が通常のところ、
富岡ではその倍近い、300台を所有していました。
当時において富岡製糸場は、すでに世界最大の規模を持ち、世界に誇る
生産能力を持っていたといえるでしょう。
生産規模ばかりでなく、
工場の環境衛生面でもブリューナ氏によって、
その時代としては十分すぎるほどの配慮がなされていました。
創業時,石炭の煤煙を空中に放散する役目を担っていた、
鉄製煙突は、36m 以上もの高さを誇りました
操糸工場の排水や、繭倉庫などの雨水排水用として、当初から地下に
レンガ積み排水溝なども造られていました。
こうした配慮は,それまでの日本には見られないものです。
環境衛生思想という欧米の文化が根底にあったからこそ、
生み出されたものもたくさんありました。
富岡製糸場は、同じ時代の「女工哀史」などで語られたような
労働環境とは大きく隔たっています。
福利厚生面での配慮なども、十分になされていました。
開業の翌年の2月頃には、フランス人医師が常駐するようになっています。
また、6畳間の病室を8室も備えた、
本格的な病院が敷地内に建設をされていました。
治療費や薬代は、工場側で負担され食費や寄宿舎も、全額が無料でした。
休日には、芝居小屋見物や貴前神社への参詣なども許されており,
季節ごとの花見や、盆踊りなども盛んに行なわれていました。
富岡製糸場はその近代的な設備のみならず、
七曜制の導入や、労働時間や服務規律、月給制、寄宿制、診療所など、
労働環境に関わるあらゆる面において、
わが国に最初に労務管理法を導入した
近代的な模範工場といえるでしょう。
文明開化の夜明けとは、遅れていた日本の製糸技術が、
熱心な西洋人たちの指導によって大幅な器械化が進められた
時代のことをさしています。
こののちに、日本の生糸産業が西洋人たちの功績によって
輝かしい夜明けを迎えることになるのです。
こうして貿易の主役として脚光を浴びた生糸は、
こののちに、至る所での製糸工場の建設へとつながりました。
同時にそれは、日本の歴史上はじめて、女性たちの職業的な働き場を、
大規模に生み出すという成果も生み出します。
女性たちの社会的進出の最初のきっかけをつくったのが、
富岡製糸場の存在ならば、生糸は、今日の日本の経済的な原点を
作りあげたといっても過言ではありません。
第七章・完
・最終章へつづく
作品名:舞うが如く 第七章 10~13 作家名:落合順平