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フォックスギャップの亡霊

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06.私の相棒



 青と紫を基調としたネオンが飛び散る様はまるで「ブレードランナー」の世界へ飛び込んだかのよう。仄暗い中でスロットマシンの忙しない多重奏と混ざり合ってねっとりとした熱を生んでいる。ホテルの用意した狂騒。自らのためだけにあるという謳い文句の贅沢なひと時。そのうち賑やかさは遠くへ消え去り、機械へコインを投入する感じよい音だけが火照った耳の奥で響いてはどきどきを盛り立てる。煽り立てられ酔いつぶれた客たちは、痴呆の様な顔でポケットから次々と金を掴み出していた。無言のまま、一人ぼっちのまま。

 サングラスをシャツの胸ポケットへ落とし、レナードは開けた視界を見渡した。懸命な判断だろう。わざとらしく安っぽいスラックス、シャツのボタンも大人しく一つ開け。吊るしのスーツにレイバンはちょっと不釣合いだ。
「人が多い。平日なのに」
 声の聞こえるぎりぎりの距離についていたオリヴィエが首を傾げる。
「レイバーズデイだっけ」
「金曜日だからな」
 振り返りもせずレナードは答えた。

 フェニックス生まれの彼にとってラスベガスはほんのご近所。ハイスクールのときは週末になるたび仲間とバスに乗り、観光客を脅したり財布をくすねたりのワルを重ねていたのだと雑居房の中で寝物語に聞いていた。自然、カジノでの振舞いも洗練されている。
 対するオリヴィエはニュージャージー育ちとは言え、刑務所に放り込まれるまでど田舎のキャムデンから出たことすらなかった。今だって三度目の来場にも関わらず視線は定まらないし、ジーンズのポケットに突っ込んだ手を握ったり開いたりすることに忙しい。レナードの罵声も確かに言い訳できなかった。利きすぎた空調以外の理由で既に喉が渇いている。二時間前、カラフルに弾ける火花のようなペッパーミル・リゾートカジノの看板を見ていたときから、躁鬱の傾向が激しい。
「20万ドル」
 乾いた唇を舐めながら呟く。言葉にした途端、意味は形になって重く響いた。
「大したこたない」
 よたよたと歩く中年男が手にしたラックの中身とは裏腹にレナードの懐は発火しそうなほど温かい。父親の服と家具、ついでに壊れかけていたフォードを売り払った1万6千ドルが元金。今では膨らんで33万ドル。今夜彼はパフォーマンスとして、10ドルベット(賭金)のテーブルで400ドルほどを既に擦っている。無論機嫌を悪くするでもなく、うるさいばかりのマシンブースに背を向け、じっとその青い瞳を100ドルベットのテーブルに注いでいた。全米屈指の賭博王国だと言いながらも、平日のリノは寂れている。この不況は痛かったし、何より州の向かいには粋の極みラスベガス。テーブルゲームの席がそれなりに埋まっている今日はまだ繁盛しているほうで、リノでも相当に老舗のペッパーミル・カジノリゾートですらビデオポーカーやスロットマシンが幅を利かせていた。

 先ほどオリヴィエがスロットマシンにチケットを食べさせていた頃、ダンはいかにもなハスラーの男相手へ愛嬌たっぷりの笑顔を浮かべながらカードを切っていた。今は一人。カードをしまいこむシューを指先で撫でながら辺りを窺っている。その癖こちらに気付いている様子は全く見受けられないのだ。レナードの唇に浮かぶ嘲りは共犯者の間抜け具合に対してか、それとも大きなカジノそのものに対してか。普段と何も変わらないように思えた。

 手の中で遊ぶ千鳥模様のチップはまるで生命を持っているかのような動きを見せる。3年と何ヶ月かの間、あれだけ熱心に練習していたのだ。もともとの器用さも手伝い、レナードのチーティングはセミプロレベルまでには上達している、と思う。少なくともオリヴィエは、彼のトリックを一度として見抜けたことがない。引っかかるとしたらタイミングと連携の失敗、または自らのドジ。バンバン、振り上げられるハンマー。
 チップが螺旋模様を描き小指の果てから身を投げる。
 すんでのところで受け止められたそれをオリヴィエに投げ渡し、レナードはほんの微かにだが笑顔を浮かべてみせた。
「女の脚ばっか見てんなよ」
「見てない」
「じゃ見ろ。あっちでカクテル運んでるブス」
 顎でしゃくって見せた先、クラップスブースの女がブスかどうかは覆いかぶさったハニーブロンドのお蔭で分からなかった。ただチップを渡している男の機嫌が良さそうで、傍らにいる女が堪忍袋の緒を懸命に繋ぎとめている様子から考えて、鵜呑みにはできない。男の腕を抱えた女がぶりっこの口調で言う。「ねえマット、もういい加減サイコロなんかつまらないわ」。
「ブロンドをファックしたら運がつくらしいな」
「へえ」
「顔はともかくあの尻はイカすぜ。おっぱいもデカい。乳首が透けてる」
 思わず手の中のチップを握り締めて目を見開いたオリヴィエを軽く肘で小突いたレナードは、口ぶりと裏腹に意識を外していた。追いかける。こちらを横目で窺うダンと視線がぶつかった。二人分の注目に耐え切れず、すぐさま顔は背けられる。
「席、空いたな」
 シャツの袖を弄りながらレナードが言った。置き去りにされたグラスを回収するカクテルガールが、爪先に重心を傾ける動きで方向転換する。レナードの意見は正しかった。とんだオカチメンコ。今のところ、ギリギリのラインとは言えレナードが間違っていたことは殆どない。

 既に冷や汗の滲んでいる掌をジーンズの尻で拭う。摩擦で蘇った熱は悪い兆候ではない。もう走り出しているのならば、後は完走するしかない。大丈夫、あと一回で天国への扉が開く。天国という言葉が縁起悪いならば、栄光への。
「怖いよ、ミスター・ホワイト」
 まるでヘルタースケーターのようにぐるぐると回り続ける意識に圧され、オリヴィエはぽつりと呟いた。
「死にたくない」
 わざわざ顔を捻じ曲げずとも、シャツの袖を弄っているレナードが似非笑ったとちゃんと分かった。
「心配すんなよ、ミスター・オレンジ」
 歩き出した後ろ姿へ引っ張られるよう、気付けばオリヴィエも足を動かしている。刑務所の中にいた時から全く変わらない無謀な勇ましさがそこにはあった。巻き込まれたならば、後はもう身を任せればいい。それはまさしく――
「俺もお前もタフガイだろ?」