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嘘と冷めたコーヒー

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 真冬の昼下がりのオフィス街。北風の中昼食を求めて足早に行き交う人の流れを避けて、表通りに面しながらこぢんまりとした雰囲気の喫茶店に彼はいた。通りに面したガラス張りの壁の手前の席でガラスを背にして座っていた。目の前の机の上には既に空の軽食の皿と淹れたてのコーヒーが入ったカップが一つ。
 店内は数人の個人客がいるのみでBGMのクラシック音楽がゆったりと流れている以外静かなものだった。彼の座る席からは多少背後の雑踏の音が聞こえていたが、それも囁き程度でしかない。コーヒーを一口飲んでカップをソーサーに戻す。キッチリと締めていたネクタイを緩めて背もたれに背を預けた。背広の中でふっと肩から余計な力の抜ける感覚に息を吐いた。
 社会人になって早八ヶ月が経とうとしていた。新しい環境に身を置くというのは存外精神的に厳しいもので、慣れるまでにはまだ少し時間が足りないようだった。大学生時代の自由奔放な生活は許されず、とにかく与えられた仕事をこなすのに必死の毎日。出先での一人の昼食休みが唯一の安らぎの時だった。
 店内に流れるクラシックの曲調がスローテンポのものに変わった。どこか子守歌のような響きの曲だ。ゆったりとした音に意識が溶かされていく。ちらりと左腕の時計を見やればまだ三十分は休んでいられそうだった。腕を組んで目を閉じてしまえば思考はゆるゆると沈んでいく。遠くでちりんと鈴がなったような気がした。その音も子守歌に溶けてなくなり、そして全てが遠くなっていく。
 急に間近で懐かしい声がした。
「○○、くん?」
 五感が急速に戻ってくる。ぼんやりと身体を包んでいた熱が霧散していった。目を開いてみれば、机の向こうの通路に見知った姿。思わず背もたれから背を離し、身を乗り出して問いかけていた。
「□□……どうして、ここに?」
 彼女は言葉を失ったように立ち尽くし、数秒して隣の机に席を取った。ちょうど斜め向かいに。鞄を床に下ろして詮索顔なウエイトレスにコーヒーを注文した。それきり互いにかける声も見つからずに沈黙が落ちた。子守歌は既に調子を変え、今はジャズと思しき曲が流れていた。
 彼は組んでいた腕を解いてコーヒーに口をつけた。彼女の様子を伺い見れば、彼女は街の方に視線を向けていた。予期せぬ再会だった。最後に会ったのは大学の仲間内での卒業コンパだっただろうか。そのときに比べて随分と印象が変わっていた。かつては肩のところまでしかなかった髪は背の中程まで伸ばされ、上の方の一部をバレッタで止めていた。シャープな雰囲気はそのままだったが、レディースのブラウスとタイトスカートのスーツを着た姿は少し女性的になっていた。輪郭の細さと遠くを見る鋭い瞳だけが、かつてのまま浮き世離れしたような雰囲気を湛えていた。
 不意に彼女がこちらを見た。日本人特有の濃くはっきりした黒い瞳と視線がかち合った。彼女は少し困ったように笑った。そして机に両肘を乗せて手を組んだ。戸惑いと諦めの入り交じった声で言った。
「こんなところで会うなんて思わなかったな」
 彼は返す言葉を探して、止めた。コーヒーカップを下ろした。ちょうどウエイトレスがコーヒーを運んでくるところだった。彼女はウエイトレスからコーヒーを受け取り、机の端の瓶から角砂糖を一つ落とし入れた。ソーサーの端に乗っていた銀色の小さなスプーンで砂糖を溶かしながら独り言のように呟いた。
「スーツ姿似合うんだね。知らなかった」
「似合うだけではダメなんだけどな。見合うようにならないと」反射的に言葉が出てきた。かつてのように。少しだけ気が軽くなった。まだ、感覚が覚えていたのだと。かつて彼女と過ごした日々の名残は身体に染み着いている。
 彼女は小さく笑い声を漏らして「そういうところは変わらないな」と言った。それからこちらを向いて、自分の髪の先を軽く片手の手櫛で溶かして言った。「髪、切ったんだね」
 大学卒業時までテキトウに伸ばしていた髪は就職と同時にばっさりと切った。社会人としての格好でもあったが、区切りのようなものでもあった。それはきっと相手もそうなのだろうと思った。変えたかったのは髪型ではなく、生き方なのだ。
 彼は相手のそれには触れずに彼女を見返した。彼女はまだスプーンでコーヒーをかき回していた。コーヒーからはまだ淹れたての白い湯気が立ち上っている。猫舌の彼女にはまだ熱すぎる。
 かつて自宅のキッチンでよく見た彼女の癖。小さく身内に痛みを感じた。つきりと神経が強ばるような痛み。それも一瞬のことだった。その痛みはすぐに体温に溶けて消えた。なんてことはなく、とうに慣れてしまったものだった。
 ふと、彼女はスプーンをソーサーの上に戻した。急に視線を机の上に落として膝の上で両手を堅く組み合わせた。そして顔に陰を作った前髪の内で目を細めて言った。
「結局さ、今でもあの時あなたと別れたのが良かったのか、悪かったのか」彼女はそこで一端言葉を切ってコーヒーカップを両手で包んだ。コーヒーの波打つ水面に視線を向けたまま。「たった今でも、わかってないんだけど」
 彼は反射的に目を臥せ、きつく目蓋を閉じた。膝の上の両のこぶしを爪が手のひらに食い込むほどに強く握っていた。かちゃんと陶器の音がした。言葉は出てこなかった。彼女が席を立つ音がした。それから、微かに震えた声。
「今、付き合ってる人がいるの。それほどカッコいいわけじゃないけど、優しくて、気立てのいい人と」
 一つ一つ言葉を選ぶような、臆病な声色だった。その中に少しだけ含まれた冷静さが、これは嘘だと知らせていた。ああ、また嘘をつかせてしまっている。あの時のように。
 たまらず彼は薄く目を開けた。じわりと広がっていく目頭の熱を無視して微笑みを作って顔を上げた。
「そうか。お前が幸せで良かった」
 彼女は机の上に千円札を一枚置いたところだった。一瞬視線が合って、相手の唇が震えたのが見てとれた。何かを言い出そうとしているかのようだった。彼女は堪えるように唇を引き結んで、小さく、本当に小さく頷いて鞄を手にした。そしてそのまま、振り返ることなく足早に店を出ていった。入り口の鈴が名残のように高く鳴った。
 彼はしばらく彼女の残したコーヒーカップを眺めていた。水面から揺らぐ湯気を追って視線が天井に向かい、そして積めていた息を細く吐き出した。滲んだ視界に暖かい色の照明の光が揺らぐ。
 もう一度痛みを感じるほどにこぶしを握り、それからぎゅっと目を瞑って顔を臥せた。一息付いて目を開けて、気休めにコーヒーカップに口をつけた。とうに温もりを失ったコーヒーは味がしなかった。
作品名:嘘と冷めたコーヒー 作家名:庭床