舞うが如く 第七章 1~3
舞うが如く 第七章
(2)富岡への路
速水堅曹(はやみ・けんぞう)は、各地から技術伝習にやってきた工女や
工男たちを指導するかたわら、前橋において、大規模な製糸工場を
造るという計画を立ち上げました。
そのために集められたのが、16歳から20歳前半までの、
前橋周辺に住む士族たちの子女たち、20名余りでした。
完成したばかりの富岡製糸場は、
フランス人技師の直接の指導のもとに建築をされたものでした。
当時の最新鋭ともいえる生糸器械をそろえた、
世界に誇る近代的な製糸工場でした。
ここでは製糸業発展の模範となる工女たちの育成を、
その第一目標にかかげていました。
そのために、ことさら工女たちを全国から集めることにこだわりました。
生糸の増産と、品質向上の技術を各地へ普及させるために、
より特別な力を入れていました。
この時代の良品の生糸は、外貨獲得ための主力な輸出製品です。
その製法の近代化と大量生産の達成は、国をあげての一大事業になりました。
しかし国を挙げての大事業といいながらも、
この当時、なぜか農村部からの工女の応募は一切進みません。
窮地に立った政府は苦肉の策として、
あらためて各県の役人たちに対し、強い要請を届けます。
必要となるその頭数を割りふったうえで、期日を定めて富岡製糸場へ、
自らの子女たちを派遣するよう、改めて命令が出されました。
その結果、県の役人や旧士族、大名家などから、
おおくの子女が富岡製糸場へ送り込まれてることになりました。
この頃の生糸の生産方法は、手仕事による「糸繰り」が主流です。
ほとんどが、農家の厳冬期のおける副業として営まれていました。
器械による製糸技術は、欧米から輸入されたもので、
それらも明治以降になってから、ようやく導入されました。
関東地方においても、主要な生糸の産地の、
信州や上州、武州などでも、やはり手仕事による「糸繰り」が主流でした。
「女工哀史」や「野麦峠」などで紹介されたように、集団化され工場が作られましたが、
その実態は、人力に依存した手仕事による手加工の世界でした。
おおくの年端もいかない少女たちが、朝から晩まで熱湯で煮た繭から
糸を引き出して生糸を生産していました。
作品名:舞うが如く 第七章 1~3 作家名:落合順平