毒虫少女さみだれ/私に汚い言葉を言って
「え、どういうことマジで! 夜中のあのゴニョゴニョはそういうことかよ!」
「まあそんなところでしょう」
──本人は同棲に気付いているのかいないのか。
五月雨は毒虫であるが故に──人より劣等であるが故に、人の範疇から外れてしまったものを見たり、その声を聞くことができる。だからといって、そういった連中と積極的に仲良くする気にはなれなかった。彼らはいつでも、どこにでもいる──そしていつでも、どこにでも移動する。あの少女の霊もまた、104号室から出てアパート内を彷徨っているところをよく見かけた。
──ああいう人達は、
駄目だ──付き合えば後で泣きを見る。
それこそあの特異な姉妹でもない限り、人は必ず死ぬ。
そして──霊ですら、いつまでもこの世界に留まり続けることはできない。
行く先がどこなのかは知らないが、とにかく霊はいずれ消えるのだ。大抵は犬猫よりも早くに逝ってしまう。
──そんな人達と、
付き合ってみたところで、別れのたびに嫌な思いをするだけだ。
何故あの少女が佐佐木原とかいう男の部屋に拘っているのかは知らないが、今の時点ではあの男が奇妙な同棲生活に気付いているのかどうかは怪しい。気付いたところで、恐らく彼には何も出来ない──見えないし、聞こえないし、触れない。
──普通はそれで良いんですけどね。
あの中年のように──あるいは、隣の青年のように。
何も見えないし気付かないのならば、それが一番幸せなのだろう。
未だに衝撃から立ち直れていないらしい義輝を横目に見遣り、五月雨はこっそりと溜息を吐いた。これからアパートで暮らしていく上で接点が出てくるのかもしれないが、少なくとも自分が巻き込まれることはない。ならば多少の悪戯心を発揮したところでそう怒られもしないだろう。嘘は吐いていないのだ──確かに佐佐木原は二十歳前の少女と同棲しているし、彼女はいつでも一糸纏わぬ姿だ。ただ、いつでも血塗れなのだが。
「はー……何か、すげえアパートだよな。濃いっていうか、みんなキャラ立ちまくりだろ」
「鍋倉さんだってキャラは立っているでしょう」
「いや、俺は至って普通だよ。弟なんて熟女好きの癖に一コ下の彼女がいるとか、超キャラ立ってんのにな」
「──でも、あのアパートに入居したのですから」
──もうそれだけで、十分普通じゃないんですよ。
「長く住んでいる僕が言うのもおかしな話ですが……普通の人間は、あのアパートには住めません。近付いて、遊びに来たりはできるかもしれませんが、住むとなると話が違います。あの大家さんはその辺りの選別が厳しいですから」
「大家って……あの、美人の? あの人が入居者を選んでるわけ?」
「ええ。あの人は変わった人とか、変わったものとか、そういうのが好きなんです。そうでなければ、いくら祖父の紹介があったとはいえ、僕のような未成年者に部屋を貸すなんてことはしませんよ」
「……ああ、自分が変わってるって、自覚してんだ……」
「『変わってる』と思われて避けられるために、わざわざこんな格好をしていますから」
洗面器もクマのぬいぐるみも。
怪奇映画趣味も、深夜の徘徊も。
五月雨の日常は、世間から切り離されようとする絶え間ない努力によって成り立っている。
そうでもしない限り、五月雨のように優柔不断で人恋しがりな人間は、容易く社会に溶けて紛れてしまうだろう──毒を垂れ流しにしながら、多くの人生を終わらせながら。そんな恥知らずな真似が許されるはずはない。祖父の言い付けなどなくとも、五月雨は幼い頃から社会に溶け込むことを禁忌と感じ続けていたのだ。
──人混みに出るな、学校に行くな、外出するなら深夜にしろ。
──できるだけ人と関わるな、友達なんて作るな、不要な会話は避けろ。
──そうでないと──お前は、お前を許せなくなるぜ、さあちゃん──。
「……わかっているつもり、でしたが」
頭では理解していても、心が納得できていない。
大概そういった衝動は過ちを引き起こす。理性で抑えつけ、自身を律する必要がある。五月雨の精神は、常に理性と衝動の間で板挟みになっていた。薄く削がれるように疲弊し、摩耗していく。失われた部分は二度と戻ることはなく、日々意識が平らに均されていく──いっそ無感になれたらと何度切望したかわからないが、人間の精神は意外に頑丈で、鈍感だった。
今の自分は、人に紛れて生きている。
着物姿の女性も、屋台でたこ焼きを食べる子供も、喫煙所に固まる男達も、全て自分に関わりのない人間ばかりだ。隣で所在なさげに立ち尽くしている青年ですら、同じアパートの住人というだけで特別知り合いというわけではない。今日この場で別れれば、最悪二度とまともに会話しないまま、どちらかがアパートを退去することになってもおかしくはないのだ。本来人の生活というのはそういったものだし、深く言葉を交わす間柄になるのは容易なことではない。
──だとしたら、
もう少し──機会を大切にしても、良いのだろうか。
祖父からの言い付けを頑なに守り続けていたある日、大家に言われた言葉を思い出す。
──五月雨ちゃん。
──あなたは確かにとても怖くて、危なくて、普通には生きていけないかもしれない。
──けれど、あなたの人生は、あなたのものでしかないのよ。
──あなたが関わらずとも、人は容易く不幸になるのだから。
──その全てがあなたの責任だとは──思わないでね。
「本当に……変わっている」
僕は、
きっと不幸を背負いたいだけの──馬鹿で無知な、小娘だ。
正月の寺がこんなにも賑やかで楽しいなんてことすら知らなかった。
人混みがこれ程鬱陶しいことも知らなかった。
明るい景色で見る人間達が、こんなにも楽しそうな顔をしていることも知らなかった。
知っていたけれど──知らない振りをしていた。
「……変わっているんだから──変わることぐらい、許されるでしょう」
「──え? 何か言った、五月雨ちゃん」
無料で配られる甘酒を受け取り、仄かに立ち上る湯気で暖を取っていた義輝が、漏らした独り言に反応してくる。いちいち聡い人だと感心しながら、五月雨はくすりと忍び笑いした。
「いいえ、特に何も。ところで鍋倉さん、一つ提案があるのですが」
「あ? 何、いきなり」
「僕とセックスしませんか?」
「俺の人生が確変入ったのか!?」
危うく甘酒を吹き出しそうになっている義輝を横目に、五月雨は緩く指折りをしていき、
「ぴ、ぴ、ぴ、……ぶー。即答しなかったので権利没収です。一生」
「一生!? いや、ていうかしねえよ! 俺彼女いるし!」
「それはあなたの病的な妄想です。弟さんも悲しんでいます」
「止めてくれ、本気で悲しいよそんな妄想! 現実! 現実にいるから!」
「弟さんは現実にいるでしょう」
「違う、弟もいるけど彼女もいるんだ!」
「あ、おまわりさん、こいつ僕にセックスしようとか言い出しました。重度のペドフィリアなので即刻逮捕が良いと思います」
「おまわりさん違います、こいつが勝手に言ってるだけですから!」
ぎゃあぎゃあと──騒いでいたところで、誰に咎められるわけでもない。
作品名:毒虫少女さみだれ/私に汚い言葉を言って 作家名:名寄椋司