憧憬-どうけい-
その広さも、温度も、質感も心地よかった。
立ったままでも、胡坐を掻いたその間に座っていてもそれは変わらない。
胸ポケットにはいつものように携帯電話が入っていて、彼の鼓動は聞こえない。
かといって、外して欲しいとも言えない。
そういう、仕事だ。
連絡がいつ入るかわからない。
着信音は聞いたことはない。
いつもマナーモードだ。
カッターシャツのボタンを2つ外したときだ。
頬にバイブレータの振動が伝わった。
彼女は体を起こし、離れる。
彼は、画面を確認する。
ポケットから引き抜いたとき、紙片が落ちた。
彼女は、床まで落ちた紙片を拾い上げて彼に差し出す。
少し慌てて取り上げた。
「見てないよ」
彼は、紙片をポケットに捩じ込む。
彼女は、胸元のボタンに掛けようとした手を払われた。
「・・・」
返す言葉が出ない。
「なに?」ぶっきら棒に彼が聞く。
「・・・取らない…よ」少し目頭がつーんとした。
彼女は、意識して涙をこらえた。
涙の効力なんて通用しない。
たとえひと筋流れたとしても乾くのを待っているだけだろう。
こんな彼だ。
彼女は何度も戸惑い迷った。
だけど、やっぱりこの場所に帰りたい。
(大丈夫?仕事?)彼女は声にはできずに見上げる。
「いいよ」
彼女は、俯きかげんに頬をあげる。
彼の腕が、彼女を抱く。
強く・・・そして強く。
− 完 −