In der Stadt von einer stillen
2.
西国クンツァイト。人の棲まう世界の西側の地。空は一段と闇を増して、あと少しもすれば街は躊躇いもなく裏の顔を見せ始める。
今日は少し、いつもより外の空気がざわついているように感じた。何か独特な、感じたことのない気配が辺りに点在して蠢いている…。
「…様、伯爵様?ねぇ、聞いてる?」
ポニーテールにエプロン姿の女が視界に割り入ってきた。カウンター越しに身を乗り出している。この宿の娘、レティカ・スォルツァートだ。ここはその宿のレストランにあたる場所。
伯爵様とは俺の事らしい。容姿が色白で華奢な上、陽の光が苦手で、曰く吸血鬼のようだから、だそうで、初めて彼女に会った瞬間からそう呼ばれているが、正直性に合っていない。
「あ、あぁ、何だ?」
「新メニューのシチュー、どう?お味は?」
満面の笑顔でレティカは頬杖をついた。俺は慌てて自分の目の前に並べられた料理に視線を移す。
「あぁ…ちゃんと美味しいよ」
「そりゃあ、私が作ったんだから当然。…なんか他に感想とかないの?」
「強いて言うなら…」
そう間を置いてから考えてみた。そういえば何か物足りない。いつも食べている食事はもっと…、
「もっと、辛い方が良いかな」
「えぇ?シチューが辛くてどうするのよ。カレーじゃないんだから」
レティカが素っ頓狂な声を出して目を瞬かせた。そして間髪入れずに思い出したように吹き出した。
「もしかして伯爵様、シウアさんの料理、食べ過ぎなんじゃない?」
そう言ってレティカは腹を抱えて笑い出した。その理由をよく解っていない俺は多分、口を開けて次の言葉を待っていたと思う。
「あの人、何でも辛くしちゃうから…。味覚大丈夫なのかなぁ?」
思いっきり笑いこけた後、彼女が涙を拭いながら言った。…そうだったのか。あれが人の食べ物の基本だと思っていた。どうやら普通の人間から見たらおかしな代物らしい。
「これじゃあ伯爵様に意見貰ってもしょうがないな…」
レティカが腰に手を当てながらため息をついた。元々食事をする必要がない俺に、そんなことを期待して貰っても困るわけだが。そう思いながら、ふと意識を外に向けた。何か鋭い気配が横切った。ひとつではない、同じような気配が遠くにいくつもあった。自分と同じ、闇の眷属とはまた違った影の散乱。
「…伯爵様?どうしたの?さっきからぼうっとして」
視界にまたもレティカが飛び込んできて、外へ向いていた意識がまた戻った。その間際、影とは別の気配があったような気がするが、小さくて正確に読み取れなかった。
「…嫌な感じがする」
「え?伯爵様、そんなのもわかるの?」
何か心当たりがあるのか、彼女は驚いていた。そして先程よりも身を乗り出して、耳を貸すように手をこまねいた。
「最近、ここらで東国の奴らがうろついていて、物騒な事件が起こってるんだよ。何でも人狩りだとか…」
「東国の?」
東国韋昌輝帝国。聞いたことはあった。空気や土地、元素の構成が異なるようで、精霊の中でも力の無い者は存在を維持することも難しい、誰もあまり踏み入れたいと思わない土地だった。もっとも、あちらにはあちらで精霊とは異なる生物が存在するようだが。
「向こうの人間は黒髪黒目だからすぐにわかるよ。この街に拠点を置いて、茶毛で青い瞳の若い女性を次々に拉致してるって噂が立ってる」
「じゃあこの異質な気配はそいつ等のものか…」
小さく呟くと、レティカがぎょっとして身を引いた。そして店内をきょろきょろと見渡すと、小さく屈んで聞いてくる。
「ち、近くに居たりする…?」
不安そうに聞く彼女。何かと思ってその容姿を再確認する。そういえば、彼女も茶毛に青眼の持ち主だ。西の人間にはブロンドの髪の人間の方が多いから、彼女の落ち着いた茶毛も珍しい方だった。
「居たとしてもお前は大丈夫だ」
「ちょ、ちょっと!それどういう意味よ…!!」
虚を突かれて目を見開いた後、彼女は頬を膨らませて怒鳴った。それを横目に俺はふっと笑ってから、気配を消して立ち上がった。
「は、伯爵様!?」
彼女には俺が一瞬消えたようにも見えただろう。俺は既に扉を開いて外に出ようとしているところだった。
「気になる事があるんだ。ご馳走様、今日はもう行くよ」
「えぇ?せっかく来たんだから、もっとゆっくりしていけばいいのに」
そうふてくされる彼女に、次は味覚の正常な奴を連れて来ると約束してその場を後にした。密かにこの宿へ結界を張り巡らせて。
作品名:In der Stadt von einer stillen 作家名:一綺