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酔わせてよ

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『酔わせてよ』

 花盛りの四月の週末のことである。
 リエはゆっくり起きた。昨日、宴会が飲み過ぎたのである。カーテンを開けると、日は既に高く昇っていた。
 朝食の支度でもしようかと思案していたら、突然、恋人のサトルから電話がかかってきた。
 仕事はどうだとか、いろんなことを聞いたり話をしたりした。そして何かのついでにと言わんばかりに、「もうじき結婚する」と告白した。
それは六年間続いた二人の関係が終わったことを意味するものだった。
「冗談でしょ?」、「何、馬鹿なことを言っているのよ」、「六年も続いたのに、そんなに簡単に別れると言わないでよ」とか、いろんな言葉が浮かんできたけど、何も言えなかった。今にも胸が張り裂けそうで、たった一言「分かった」と言うのが精いっぱいだった。すると電話は直ぐに切れた。

 大学三年のときに二人は出会い恋に落ちた。卒業しても続いた。四年目に入ったとき、サトルは転勤になることになった。そのとき、彼は求婚をした。リエは内心嬉しかったが、まだ結婚は早いし、それに仕事を止めわけにはいかないとやんわりと断った。少し離れたところに行くが、会おうと思えば、いつでも会える。離れていても関係を続くと信じていたのである。だが、いざ離れ離れに暮らしてみると、電話も、メールも、回数は少なくなってしまった。それでもリエの心の中にはサトルがいた。けれどサトルの心には、リエはいなかっていた。

 リエにとって、こんな結末は想定外だった。何をしていいのか分からず、ただうろたえているばかり。そして、自分がこんなにもサトルを愛していたのかと気づかされた。一人でいると、胸が苦しくて切なかった。そこで旅行かばんを持って部屋を飛び出した。電車に乗り、横浜に来た。繁華街のところにあるホテルに泊まった。
 食欲がなかった。すぐに眠る気持ちにもなれなかったので、ホテルのラウンジで入った。
 客の数は少なかった。ボーイが暇を持て余していた。
 窓際に座り、ビールとつまみを頼んだ。
 町の無数の明かりが見えた。明かりの数だけ、そこに生活がある。多分、多くは幸せな生活であろうと思うと、リエの眼に一筋の涙が流れた。
「お嬢さん。どうかなさいました」とボーイが優しく声をかけてくれた。
「ちょっと、眼に塵がはっただけ。ないでもないわ」
「じゃ。ハンカチでもお持ちしましょうか?」
「いいわ。自分のハンカチがあるの」
 時間がどれほど流れただろうか。気がつくと、少し床が揺れている。かなり飲んだ証拠だ。部屋に戻った。服を脱ぐのがやっとだった。下着姿になると、そのままベッドに倒れた。もう一度電話したいという衝動に駆られた。もう一度、彼の気持ちを聞きたかった。そんなことをしても意味がないということが分かっていても。
 頭の中にある時計の針を逆さに回して、あれこれと考えた。結局、忙しすぎて、彼と会えず、やがて彼の気持ちが他の女に向かってしまったのだ。六年も付き合い、一時、同棲さえしたのに、どうして他の女と結婚することを簡単に告げられるのか。……いろいろ考えているうちに、また苦しくなって、少し吐いた。何度か泣いているうちに眠りについた。
 翌日、リエはホテルを出ると、重たい荷物を引きずるようにそのまま駅に行った。

 数日後のことである。
 親しい友人の一人であるアヤを誘って飲んだ。
「リエ、最近、何かあった?」と聞いた。
「どうして?」
「だって、飲む量、半端じゃないわよ」
「そうかも……昔、父が一人で飲んで、そのまま眠ってしまったことがよくあった。どうして、あんなに酒を飲むのか、理解できなかった。けれど、今は分かる。酒を飲まずにはいられないときがあるのよ」
「失恋でもした?」
リエはうなずいた。
「ずいぶん、素直ね」
 リエは顔を伏せたまま、「失恋なんて、よくある話だとは思っていたけど、いざ自分に起こってみると、どうしたらいいのか分からない。別れを告げられたときのことを思い出すと、この胸が苦しいの。どうやって鎮めればいいのか分からず、お酒を飲んでしまう。たまにはいいでしょ、酔わせてよ。女が一人で酔っ払っていたら不自然でしょ。だからあなたを誘ったの。たまには愚痴を聞いてよ。この胸の騒ぎを鎮めてさせて」と笑った。
 皮肉屋のアヤは微笑んで「“失ったとき、初めてその意味に気づく”と誰かが言ったよ。今度、恋するときは、恋人と別れないようにすることね」
「今は説教なんか聞きたくないの。ただ酔いたいの。今夜は気持ちよく酔わせてよ」
作品名:酔わせてよ 作家名:楡井英夫