HOPE 第四部
「どうって事ねぇよ。ジュース一本の貸しだからな!」
その言葉で、重苦しかった雰囲気が、一気に解れた様な気がした。
♪
文化祭の準備期間は二日間だ。
その後に、一日の公開日がある。
クラス合唱で歌う曲は全員の了承を得て、想い出がいっぱい、という曲に決まった。
一九七〇年から八〇年代に掛けて流行した、H2Oという歌手グループの曲らしい。
俺は、こういった話題には疎い。
野球選手の背番号や名前やチームなら、いくらでも言えるのだが。
今日は準備期間の二日目という事もあって、クラスは全体的に活気付いていた。
合唱練習も、皆はそれなりに熱心で、沙耶子も難なく伴奏をこなしている。
この分なら、無事に文化祭を終える事が出来そうだ。
合唱練習が終わった後、蓮、沙耶子、美咲で他のクラスを見回る事になった。
三年の教室がある階は、喫茶店の様な飲食店が主な様だ。
文化祭の当日は、この辺で飯を食べる事にしよう。
「美咲!」
後ろから、誰かが美咲を呼び止める。
振り向くと、そこには三年生の先輩がいた。
とても上品な雰囲気のある、爽やかそうな出で立ちだ。
美咲は満面の笑顔を浮かべて、両腕でギュッと彼の右腕を掴んだ。
「美咲、その人は?」
蓮が彼女に訊ねた。
「私の彼氏!」
「こら、そんなに大きな声で言う事じゃないだろ。皆が見ている」
美咲に腕を抱かれている先輩が、恥ずかしそうに注意する。
「あ、ごめんね。幸太」
ポカンと口を開けている俺達に、彼は言う。
「僕は三年の光圀幸太。ちょっと、美咲を借りて行って良いかな? せっかく会えたから、一緒にいたいんだ」
「俺達は構いませんよ」
「そうか、よかった。じゃあ、美咲。行こうか」
「うん!」
美咲はベタベタと光圀先輩の腕に抱き付きながら、どこかへ行ってしまった。
「さぁーて、俺も退散するとしますかぁ!」
蓮はそう言うと、俺の静止も無視してサッサとどこかへ行ってしまう。
三年生で賑わっている廊下に、俺と沙耶子だけが取り残された。
ふと、制服の裾を後ろから引っ張られる感触がした。
振り返ると、沙耶子は頬を赤くして、俺の制服の裾を掴んでいる。
「どうした?」
「あ、あの……えっと……明日のクラス合唱が終わったら……」
「何だよ?」
「文化祭、一緒に周ってくれないかな……なんて……」
それは裏返り気味な声での、彼女なりの精一杯な頼みだった。
「良いぜ。俺、一緒に周ってくれる奴なんていないから、助かるよ」
俺の言葉に、沙耶子はホッとした様に胸を撫で下ろした。
翌日、クラス合唱の練習は、朝一の体育館で行われた。
音楽室とは違って体育館は広い為、全員の声が良く通る。
練習の後、沙耶子の元へ行くと、彼女は酷く緊張していた。
練習では、難なく伴奏をこなす事が出来ていた様だが、いざ本番を前にすると不安でしょうがないのだろう。
こんな時、どう声を掛けたら良いのか、よく分からない。
彼女の右肩に、後ろから軽く手を置いた。
こちらを振り向く時、それを見計らって指を立てた。
柔らかな彼女の頬が指先を覆う。
そのまま笑い掛けると、沙耶子も笑い返してくれた。
彼女の緊張が解れれば良い。
そう思っての、俺らしくもないおふざけだった。
本番になると、体育館内部の明かりは消され、窓やカーテンも締め切られる。
誰もの視線が集まる舞台だけに、明かりが付いていた。
合唱をするのは、俺達のクラスだけではない。
勿論、他のクラスでも合唱はするのだ。
二、三程のクラスの合唱が終わり、ついに俺達のクラスの出番がやって来た。
皆が指揮者である美咲を先頭に、舞台へ上がる。
部隊の上に全員が並ぶ。
沙耶子はピアノへ、美咲は全員の視線が集まる前へ。
『合唱。想い出がいっぱいです』
放送が掛かり、沙耶子はそれを合図にピアノを弾き始めた。
伴奏が始まり、全員の歌声が体育館に響く。
女子と男子の高低のパート。
それらが綺麗に混ざり合う。
俺、蓮、沙耶子、美咲、皆、どこか嬉しそうだった。
合唱が終わった後、俺達は教室へ戻った。
「ありがとう」
俺達に、最初にその言葉を言ったのは美咲だった。
「ああ。でも、本当に頑張ったのは美咲と沙耶子だ。俺がやったのは、合唱の順番決めや練習の時間決めくらいだから」
蓮は頬をぽりぽりと掻く。
「まあ、俺は何もしてないんだけどねぇ」
「そんな事ないよ。皆、頑張ったんだよ」
沙耶子は、そう言って笑っている。
知り合いもいない学校に転校して来て、今ではこんなにクラスに打ち解けて、皆の前でピアノまで弾いた。
そんな沙耶子が、俺は本当に凄いと思えてならなかったのだ。
蓮は野球部のメンバーと、学校を抜けて飯を食いに行くそうだ。
美咲は光圀先輩と文化祭デート。
俺は昨日の約束通り、沙耶子と文化祭を周った。
夕日の差す帰り道。
途中にある土手道に自転車を停めて、俺と沙耶子は芝生に座った。
「今日はありがとう」
沙耶子は俺にそう言った。
「どうって事ない。それに、それは俺の言いたかった事だ。今日はありがとうな」
沙耶子は照れ臭そうに、目を反らして笑う。
「……うん」
「気付いた事があるんだ」
「何?」
「お前、転校して来た時と比べて、笑う様になった」
「……そうかも。最近、毎日が楽しいから」
俺も同じだ。
毎日が楽しくてしょうがない。
前までの俺には、野球しかなかった。
友達なんて、バッテリーを組んでいる蓮だけで良いと思っていた。
しかし、それは間違っていたのだ。
沙耶子、美咲、蓮。
三人とも、大切な友達だ。
今がずっと続けば良い。
二人で夕焼け空を見ながら、俺はそんな事を考えた。
沙耶子は、この真っ赤な空を見て、いったい何を思っているのだろう。