HOPE 第二部
「平野さんには、僕にはない何かがある。……その、大人らしさっていうのかな……」
「大人らしさ?」
宮村先輩はそっぽを向いた。
「ああ、すまない。なんだか、恥ずかしい事言ったかもしれない」
なんだか、宮村先輩が可愛い。
そんな事を思ってしまった。
「そうかもしれませんね。嬉しいです。先輩にそう言ってもらえると」
その場で立ち止まり、互いに見つめ合う。
キスしてしまいそうな程、距離が近い。
「宮村先輩」
その名を呼ぶ。
「平野さん」
彼も私の名を呼び返してくれる。
こうしていると、なんだか幸せだ。
退院して間もない、まだ学校へ通い始める前、兄はこんな話をしてくれた。
「沙耶子。一番幸せな時っていうのは、大事な人や大好きな人といる時なんだ」
ようやく気付いた。
私は彼の事を好きになっていたのだ。
爪先を立たせて、彼の唇に自分の唇を重ねた。
温かい感触が唇から体に広がる。
ゆっくりと目を瞑った。
宮村先輩は私の腰を抱く。
周りに人がいなくて良かった。
路上でこんな事をしていたら、警察でも呼ばれそうだ。
互いの唇を離し、再び見つめ合う。
本当に、この人が愛しい。
目をギュッと瞑り、また自分の唇を彼の唇に重ねた。
再び先程と同じ感触が蘇る。
しかし、妙に鈍い音がして、その感触はすぐに私から離された。
目を開けた時には、世界が変わっていると言っても良い程の光景が広がっていた。
彼の右肩には、煌びやかに光る刃物が刺さっている。
これは包丁だ。
宮村先輩の背後で、黒いジャンパーを着て、フードを深く被った人影が、肩に刺さっている包丁の柄を握っていた。
その人影は小さな声で不気味な笑い声を上げる。
声の高低からして、おそらく男だろう。
包丁が彼の肩から抜かれた。
その瞬間、肩の切れ目から勢い良く真赤な血が飛び出してくる。
その血が私の顔や体に飛び散った。
宮村先輩はその場に崩れ落ちる様に倒れ込み、息を切らしながら言った。
「逃げて……早く‼」
何が起こったのか分からない。
私はどうすれば良いのか、彼の言う通り、この場から逃げて良いのか。
気が動転してしまって、何も考えられない。
男は倒れている宮村先輩を跨いで私に近付く。
ただ恐怖だけが込み上げて来て、声が出せなかった。
私は震えながら、少しだけ後ずさる。
男はまた一歩近付き、私の左腕を掴んだ。
「いやっ……」
ようやく出て来た声は、こんなにもか細く弱々しい物だった。
いくらもがいても、この強い力には逆らえない。
「いやっ! やだ……」
男は容赦なく、私の左腕のリストバンドを外した。
左腕の痛々しい傷跡が露わになる。
確認する様にそれを見て言った。
「久しぶりだなあ。宮久保沙耶子ちゃん」
宮久保?
私は宮久保なんて言う名字じゃない。
この男は人違いでもしているのだろうか。
「ああ、そうだ。宮久保じゃない。今は平野沙耶子ちゃんって呼んだ方が良いのかもな」
その名を呼ばれて、恐怖が増幅する。
「見ろ!」
そう言って、男は私の左腕を彼のすぐ目の前に引っ張った。
その為、私の体は地面に打ち付けられる。
「痛ッ!」
聞こえて来る男の呼吸音や声から察するに、楽しんでいる事が分かる。
「ほら、沙耶子ちゃん。君の大事な先輩の意識があるうちに見てもらいなよ。この傷をさぁ!」
私は必死で弁解する。
「違うんです! この傷は……」
「この傷はなぁんなぁんだぁい?」
「こ、これは……」
宮村先輩は這いつくばりながらも、片手で男に掴みかかる。
「やめろっ!」
男はチッと、舌打ちを鳴らして宮村先輩を強く蹴った。
悲痛な声と共に、彼から声が聞こえなくなる。
「先輩っ!」
叫ぶ私を余所に、男は見せ付ける様にして、被っていたフードを取った。
「沙耶子ちゃん」
露わになった顔が不気味な笑みを浮かべる。
男の顔を見た瞬間、私は驚愕した。
それは紛れもなく兄の顔だった。
「は、隼人……お兄ちゃん……」
つい、そう言ってしまった。
しかし、纏う雰囲気が全くと言って良い程、兄とは違っている。
喋り口調は勿論の事、体付きもそうだ。
更にこの男には、所々に不審な点が見られる。
ボロボロになっている数本抜けた歯、黒ずんでいる肌の色、それらの特徴がこの男が本当に兄ではないと、確かに証明していた。
「違うんだよ。僕は君の大事な大事な隼人お兄ちゃんとは違うんだよ。僕の事を覚えていないのか?」
男は私の髪の毛を掴んで顔を向けさせる。
「いやっ!」
私の声に、興奮した様に息を荒げて反応する。
「こういう姿も可愛いねぇ」
怒りが満ちて来る。
私は男を睨んだ。
これが私に出来る唯一の抵抗だった。
そんな事を気にもせず、男は続ける。
「君はあの日もこんな顔をしていたね。あの日、あの学校の屋上で、君が僕に対してあまりにも無愛想だったから」
男の手に力がこもる。
「どうして? どうして君は、平野隼人を選んだんだ。どうして君ばかりが、そんなに幸せでいられるんだ!? ねえ、どうして!? どうして!?」
どうして!?
男は、その言葉を連呼し続けた。
何を言っているのか、さっぱり分からない。
そして、左腕を握っていた手を離したと思うと、私の首に手を廻して、力強く締め始めた。
「うっ……ぐっ、く……っは」
しだいに意識が薄れて行く。
遠くの方からパトカーのサイレンの音がした。
男はそれを聞くと、私の首から手を離し、慌てて逃げて行った。
隣に横たわっている宮村先輩は、もう動く気配すらない。
立ち上がろうとしても、体が動かない。
周りの景色が白くなり、やがて見えなくなる。
降り続く雪を一身に受けながら、私の意識はゆっくりと消えて行った。