HOPE 第二部
Episode4 宮久保沙耶子
「おい! 沙耶子。初日から遅刻するつもりか? せっかく綾人が車で送って行ってくれるのに」
部屋の外から、兄の声が聞こえた。
「ごめん。隼人お兄ちゃん。先に外に出てて。すぐに行くから」
「しょうがないな。早くしろよ」
兄に急かされながら、机の上の教科書を鞄に詰め込む。
時間はまさに遅刻ギリギリだ。
玄関から出ると、真新しい初心者マークのステッカーが着いた車があった。
綾人さんが窓から顔を出して言う。
「沙耶子、早く乗れ。飛ばしてくから」
「おい、免許取ったくらいで調子に乗るなよ」
後部座席から兄が突っ込みを入れる。
「大丈夫。俺は未だに無事故無違反だからな」
そんな愉快な会話を聞きながら、私は後部座席に腰を下ろした。
♪
二週間ほど前の事だ。
私は病院のベットの上で目を覚ました。
兄や綾人さんの話では、私は交通事故による三年間の昏睡状態から、奇跡的に目を覚ましたらしい。
しかし、私には今までの記憶がなかった。
医者の話では、事故で頭を強打した為に、記憶障害を起こしてしまったそうだ。
一つだけ、気になっている事もある。
それは左手首に付いている傷跡だ。
この話を兄に持ち掛けると
「お前はドジだったからなぁ。料理とかしてる時に、包丁で切っちゃったんだよ」
ありえない。
ただ料理をしただけで、こんな所に傷が付く筈はない。
兄は何かを隠している。
そう思っているのだが、それ以上は兄に聞く事が出来なかった。
とても苦しくて悲しそうな表情を浮かべるから。
前の私がどんな人で、どんな事をしていたのか、考えると少しだけ怖い。
それでも、隣に座っているこの青年が兄という事だけは、変えようのない事実だ。
♪
学校に着くと、少しだけ緊張してきた。
会った事もなければ、話した事もないクラスメイト達と、私は共に学校生活を送れるのだろうか。
それに、左手首のこの傷だって、いつ他人にバレるか分からない。
少しだけ不安が募る。
そんな私を見て、兄は優しく言葉を掛ける。
「大丈夫。お前なら大丈夫だ」
そう言って、ポケットから何かを取り出した。
「これ、御守りだから持って行ってくれ」
それは、兄の腕に巻かれている物と同じリストバンドだった。
「これ、隼人お兄ちゃんと同じ……」
「これなら、その傷も隠せるだろ」
少しだけ緊張が解れた気がした。
私は兄へ感謝の言葉を言い、車を後にした。
担任は黒板に私の名前を書いた。
「平野沙耶子だ。皆、仲良くしてやるんだぞ」
所々から珍しい物を見る様な、好奇心の含まれた視線が私に集中する。
「平野沙耶子です。よろしくお願いします」
とりあえず一礼した。
クラスの雰囲気は、思っていたよりもすんなりと私を受け入れた。
例えば昼休み。
一人でお弁当を食べる事になると覚悟していたが、数人のクラスメイトの女の子が「一緒に食べよう!」と誘ってくれた。
教室の片隅で、机をくっつけ合う。
「平野ちゃんって、前はどこの学校に行ってたの?」
一人が私に質問した。
「えぇ? えーと……」
つい言葉に詰まってしまう。
三年前に事故に遭って、それからずっと眠り続けてたなんて、言える訳がない。
「えっと、き、九州の方の……」
つい、そんな大胆な嘘を吐いてしまった。
「へー。凄いね! そんな遠い所から来たんだ!」
「う……うん。まあね」
私って、嘘吐くの下手だな……。
そう思うと、これからの事が少しだけ不安になった。
「学校はどうだった?」
家に帰ると、兄は心配そうな顔をして、そんな事を聞いてきた。
「え? うーん、まあ、楽しかったよ。友達もできたし」
兄の表情が少しだけ緩む。
「そうか。まあ、虐められたりとかしたら、僕に言うんだぞ」
「心配し過ぎだよ。でも」
「?」
「ありがとう」
その言葉を聞いて、兄は嬉しそうに笑った。
♪
不思議な夢を見た。
外からの月光が照らす部屋の中で、私はピアノを弾いているのだ。
そして、部屋の隅に置かれているベットに座って、一人の少年が私の演奏を聴いている。
彼の顔は、モザイクの様な何かがぼんやりと掛かっていて、確認する事が出来ない。
少年は穏やかな声で言う。
「この曲は?」
「昔、私と叔母さんで作った曲なの。曲名はホープ」
「ホープ……希望か。良い曲だな……」
少年はしんみりと呟き、私の演奏を延々と聞いていた。
真赤な色で空が染まる放課後、廊下で不思議な音色を聞いた。
廊下に響くこの音は、ヴァイオリンで曲を奏でていた。
しかも、どうしてか知らないが、私はこの曲を知っているのだ。
少しだけアレンジが加えられているけれど、昨日の夢に出て来た曲、ホープだった。
いったい誰がこの曲を弾いているのだろう。
もしかしたら、夢の中で私の演奏を聴いていた少年かもしれない。
私は引き寄せられる様に、その音を追っていた。
そして、廊下の隅の音楽室に辿り着いた。
未だに曲は鳴り止まない。
私は躊躇う事なくその扉を開いた。
音楽室の中には一人の少年が、燃える様に赤い空へ向かって、ヴァイオリンを弾いていた。
上履きの色をから察するに、二年生の先輩だろう。
少年はこちらに気付いていない。
私は、そのまま彼の音色を聞き入ってしまっていた。
やがて演奏が終わると、少年がこちらの存在に気付く。
「君は?」
そう言って、ヴァイオリン立てにヴァイオリンを置く。
夕日に照らされたヴァイオリンは真赤に彩られ、オレンジ色に輝いていた。
「あ……えっと、ごめんなさい。凄く良い音が聞こえて来たから」
「ああ、この曲か……」
「この曲の名前、もしかしてホープっていいませんか?」
彼の表情に驚きが混じる。
「え? そうだけど、この曲を知っているのか?」
「はい」
この曲は私と叔母さんで作った曲。
知っているのは私と叔母さん、そして……夢の中にいたあの少年くらいだろう。
「この曲をどこで?」
彼は音楽室の隅に置かれた本棚を指差す。
「この音楽室の本棚の本の間に挟まれていたんだ。たぶん、卒業生の誰かが入れて行ったんだろ。あの本棚は卒業アルバムとかを保管しているから」
もし、ここにかつての私の記憶に関する手掛かりがあるのなら……。
「私、この曲について気になっている事があるんです。だから、えっと……明日もここに来て良いですか?」
「もちろん。放課後は毎日ここでヴァイオリンを弾いているから」
「ありがとうございます!」
ふと、隅に置いてあるグランドピアノが目に入った。
「あのピアノ……弾いてみても良いですか?」
そんな事を聞いていた。
夢の中では弾けていたけれど、自分が弾けるかどうかも分からないのに……。
「どうぞ」
蓋を開けると、白い鍵盤が露わになり、夕日を浴びてオレンジ色に光った。
譜面台には、ホープの原楽譜が置かれている。
鍵盤の上に手を置き、そして指を躍らせる。
どうしてだろう。
手が勝手に動く。
記憶をなくす前の私は、このホープという曲を演奏していたのだろうか。
ここにいる私は、演奏する事に関して頭を使っていない。