現代異聞・第二夜『長い遺体』
だけど海ゴンケの期間中、夜は絶対に海を見てはいけない──と言われてきた。
「……その日に、死んだ人もいるのですよね」
「俺が知ってる限りだと五人だな。昔はもっと沢山の人が死んだらしいけど、本当のところはどうだかわからんね」
「──もしこれから誰かが死のうとしていたら、紘一郎さんはその人を助けたいと思いますか?」
突然──。
鍵子は、これまでの話題とまるで関係のない質問をしてきた。
いつもと変わらない平坦な表情。淡々とした口調。
だが、答えないことを許さないような、妙な強さのある声。
聞き分けのない子供を説教する母親のような声。
俺が何か間違えたことを言ったとき、よくこの声で正してくれた。
──鍵子は、
こういうときだけは、真剣なのだ。
「……いきなり変なこと聞くなよ……どうだろうな、助けられそうだったら、そりゃ助けようとはするだろ」
「飢え死にしそうな人がいたら?」
「食い物を分けてやるよ」
「借金を苦に首を吊ろうとしている人がいたら?」
「俺の手元に金があれば、まぁ、貸してやるかもな」
「赤信号の道路に飛びだそうとしている子供がいたら?」
「そりゃ普通に注意するだろ」
「禁じられた日に海に行こうとしている人達がいたら?」
──それは、
「──駄目だ。助けない」
──海ゴンケの間は、
海に行こうとする者に関わってすら──いけないのだ。
「絶対死ぬんです。死ぬんでしょう? その禁じられた日、海に入れば死ぬと思っているのですよね? それは飢えと、借金苦と、赤信号と、どう違うのでしょう」
──明々白々な死の危険が迫っているのに、
──何故助けないのですか?
「言い伝えだからですか?」
「──状況が違う」
助けなければ相手が死ぬから、
相手だけが死ぬから、
だから助けるのだ。
「海ゴンケは──助けようとしたら、両方とも死ぬんだ」
いや──両方とも死ぬなら、それでもまだ救われる。
最悪なのは──もしかしたら、助けようとした側だけが死ぬ可能性もあることだ。
それは──良識や理性といった言葉からは無縁の思考だが──理不尽、というものだろう。助けようとしただけなのに殺されて、切っ掛けとなった人間が助かるのでは、どう考えたって筋が通らない。
──もし死ぬなら、
「──両方死ぬべきですか」
「……わかんねえよ。でも、俺は、助けない。まだ死にたくない」
「蔓引トミさんもまだ死にたくなかったのですよ」
ぢりいん、と──。
錆びた風鈴のような音がした。
ふにゃふにゃと──にやにやと笑って、鍵子は唇を半月の形にねじ曲げる。
「だから悔いたのです。無念だったのです……物事の善悪に関わらず、何かを成し遂げられなかった人間というのは──無念の形相で、死んでいくのですから」
──だから、死体は気持ち悪いのですよ。
「──誰もが、無念のままに死んでいく。海に行く者、それを止められなかった者──あるいは止めようとして死んだ者。その全てが痛切な悔恨の内に死ぬとしたら……満足するのは、紘一郎さん、あなたのように関わりを絶った人間だけ、ということになる」
「……そんな満足があるか」
「ないのですよ紘一郎さん。本当のところ、そんな満足なんてどこにもないのです」
──だからみんな、不幸せなのです。
嘯いて、鍵子は薄く微笑んだ。
「この村の人達はみんな、不幸から目を逸らしているだけですよ。不幸になる権利と幸福になる義務を、履き違えているだけです」
──人が死ぬ海で、
──人を見捨てるのなら。
「──見捨てた方にだって悔いは残るのですから。せめてそこで悔いの一つも残せなければ人間ではありません。むしろ──後悔もせず人を不幸に陥れるようになってしまった者こそ、人を死なせる者……と言うべきでしょうね」
「……全然、言ってる意味がわからないな」
「後悔しながら死んでいった者達こそ、人を傷つける可能性がある。そういうお話ですよ。よく言うでしょう、深い憎しみのあまり現世に囚われ、無差別に人を傷つけるようになった浮遊霊だのなんだの、そういうお話を」
──心霊現象研究会の会員なのですから。
気の抜けた炭酸のような笑顔を浮かべ、冗談めかして言ってくる。
果たして何が鍵子の気に障ったのかは知らないが、ともかく今の長話で俺へのお説教は終わったらしい。押し隠すような笑い声を残して俺の側から離れ、先行して砂浜の方へと歩いて行く。妙に体重の軽そうな後ろ姿を黙って見守りながら、俺は小さく嘆息していた。
海に近い家々の軒先には、昔から伝わるお守りが飾られていた。
ゴンケ除けと呼ばれるもので、この時期になるとどこの家でも見られるようになる。
見た目はただの人形だが、顔の部分はのっぺらぼうだ。代わりに干した魚の頭がお面のように被せられ、手足は藁で覆っている。一つ見かけるだけでも気色悪い代物で、これが村中全ての家に飾られているというのだから、不気味さは推して知るべしという感じだ。特に海沿いの家は念入りで、五個も六個もこんなお守りをぶら下げている。
──こんなもの、
──何の意味があるのか。
子供の頃と同じ感想を抱き、薄気味悪い人形から目を逸らす。
数日前、俺はお守りを持っていたせいで死にかけるという、そこだけ聞くと馬鹿みたいな出来事に見舞われた。だからきっと、特定の条件下で、特定の人間に対してだけならば、お守りも効力があるのだろう。
でも──海を禁じた日には、何がこの村に押し寄せて来るというのか。
何から身を守ろうとしているのだろうか?
もしそれが避け難い死だの、悲惨な運命だの、そういう不幸の塊のようなものならば──お守りなんて、何の意味もないんじゃないのか。
──自分達だけ助かればいいのか。
お守りを幾つも並べて揃えて、家の中に閉じこもって、何も知らないまま海を訪れる人達を視界の中にすら入れずに過ごして。
結果として自分達が助かる。
死んだ者達を、
不幸な者達を貶めて、
──馬鹿どもが、
──あんだけ海さ行ぐな言われとったに、
──どうすんだよこんなの──。
「……助ければ良いんだ」
どうもこうもない。
助けてやればいい。手を差し伸べてやればいい。
海に近付くなと一声かけてやれば済む話だ。言われた当の本人達が、受け入れるかどうかまでは責任を持たなくても構わない──それでも、海は危険なのだと、きちんと言葉にして伝えることが重要なのだ。
そうすれば──誰が助かっても、
誰も助からなくても、
無念のままに醜い死に顔を晒して逝くなんて──そんな最期だけは、迎えずに済むんじゃないだろうか。
海鳥が鳴いている。
白い波濤が砕け、テトラポットの隙間を洗い流していった。
もうじき陽が沈む。村人達は誰かの目を逃れるかのようにこそこそと家の中へと駆け込んでいき、戸を閉め鍵をかけて閉じこもる。旅行者達に万が一のことがあっても、彼らはまるで罪悪感など抱かずに生き続けるのだろう。自分達は助かった、馬鹿どもだけが死んだ、それで十分だと思い込んで生きていくのだろう。
──そんな幸せは──そんな満足は、どこにもないのに。
──ないものを無理矢理見ようとして、
作品名:現代異聞・第二夜『長い遺体』 作家名:名寄椋司