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現代異聞・第一夜『覗き込む女』

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■ 結 ■


「あれだけ言ったのに、よく昼寝なんて出来たものですね」
 鍵子の呆れ果てたような物言いにも、俺は何一つ言い返すことができないでいた。
 物がない割には狭苦しい六畳間。畳の上に敷かれた布団で寝返りを打ち、気恥ずかしさから鍵子に背中を向ける。
「紘一郎さんの神経は本当に図太いのですね。尊敬します」
「……ありがとう」
「褒めているわけでないでしょう馬鹿男。本当に馬鹿なんじゃないですか? 馬鹿過ぎて馬鹿という言葉すら軽いように思えてしまいますね。この馬鹿」
 ふて腐れる余裕すら与えてくれない罵詈雑言の嵐が、容赦なく背中に突き刺さる。
 鍵子に相談を持ちかけた後──散々眠れないだの何だのと大口を叩いた癖に、大学から帰宅した俺は、あろうことかそのまま寝こけてしまったのだ。連夜の悪夢続きで睡眠不足気味だったとはいえ、我ながら確かに馬鹿過ぎる。電話に出ない俺を心配して鍵子が早めに駆けつけてくれなかったら、それこそ俺は二度と目覚めることがなかったかもしれない。
 ──まあ、助かったんだけど。
 有り難くはあるのだが──延々馬鹿呼ばわりされているせいで、素直に礼を言うことすらできない。
 今この時間帯、少なくとも日本に限定すれば、間違いなく俺は一番馬鹿と言われた回数の多い男だろう。自慢できたことではないが。
 いい加減悪口のレパートリーも尽きたのか、鍵子が重々しく鉛のような溜息をこぼす。その隙間を縫うように、俺は若干拗ねた口調ながらも口を開いて、

「──洋子(ようこ)」

 と──多分俺以外誰も呼ぶことのない、鍵子の本名を呼んだ。
「……藪から棒に何ですか、紘一郎さん」
「いや──悪かった。あと、ありがとな。助かった」
 鍵子がどうやって俺を助けてくれたのか、その方法まではわからない。何でも、彼女の家──稲毛(いなげ)という、この辺りでは割と有名な家なのだが──は代々おかしなものを相手にしてきた家系らしく、鍵子にもそういう不思議な力があるのだと言っていた。おかげで毎日怪奇現象と付き合わされる羽目になっているので、決して嬉しいことではないらしいのだが。
 それでも──助けてくれたのだから、俺にとっては喜ぶべきことなのだろう。
「……まったく……」
 怒っているような、どこか気の抜けたような、複雑な声で鍵子がぼやく。俺が何かしでかしたとき、こいつは最終的にこうやって有耶無耶にしてくれるのだ。素直ではないかもしれないが、立派な優しさだと思う。
 背中を向けたまま礼を言うのも不躾だったかと思い、俺は再度寝返りを打った。そのとき不意に違和感を覚える。
 ポケットの中に入っていたお守りがなくなっていた。
 帰宅直後に布団に飛び込んだので、机の上に置いた記憶もない。
「──あれ?」
「どうなさいましたか」
「ん? いや、俺、その辺りにお守り放ってない?」
「お守り?」
 寝転んだままの俺を見下ろしながら、鍵子がかくん、と小首を傾げる。特に気負うでもなく右手を差し出して、
「──これのことですか?」
 と──開かれた掌には、
 無惨に砕け散ったお守りが握られていた。
「……凄いな」
 今まで神様だの何だのはまるで信じていなかった。
 今日からはせめて、実家の仏壇でこまめに花を変えるぐらいのことはした方が良いのかもしれない。
「本当に効き目があるんだなぁ」
「……何の話ですか?」
「いや、お守りさ。それがあったから、ギリギリのところで助かったんだろ?」
「──紘一郎さん」
 ふう──、と。
 恐ろしく重く、
 恐ろしく冷淡に、
 鍵子が半眼で俺を睨む。
「……何で睨むんだよ」
「あなたは馬鹿です」
 断言された。
 しかも今までの軽口とは違う、本当に哀れむかのような視線と共に、冷たく吐き捨てる。
「──何で馬鹿なんだよ──お守りの効き目はあったんだろ?」
 鍵子とこれだけ付き合いながら、俺は未だに心霊現象に対して懐疑的だ。それでも目の前に砕けたお守りがあったら、何があったのかぐらい想像はつく。
「──それが馬鹿だと言っているのですよ」
 ──溜息を吐き出し、
 ──心の底から愚か者を見るような目付きで俺を見遣り、
 ──砕けたお守りをもう一度握り締めて、

「──このお守りは、私が壊したんです」

 ──鍵子の言葉に聞き返す隙はなく、
 ──どういうことだと言いたいのに声も出せず、
 ──急激に乾いた喉が訴える痛みに目眩すら感じて、
 ──止めろ、と手を伸ばすこともできない。

「どうやって助けたのかわからない──と言いましたね」

 そんな俺を無慈悲に突き放すように、
 鍵子は手の中のお守りを灰皿に捨ててマッチを擦り、
 ゆらゆらと揺らめく炎に視線を注ぎ、

「──これを壊して助けたのです」

 ──これのせいで紘一郎さんは見つかったのです。

「このお守りは──あの女を引き寄せる、目印だったのですよ」

 ──俺は、
 ──ゆっくりと頷いて──

 ──灰皿の中の燃え滓を、部屋の壁に叩き付けた。